■みんなで力を合わせれば、色んな事ができる。
僕たちが植えた2.5反の田は京都から5名、広島から2名の助っ人が来て、ケンゾーさんと合計8人で植えたから、あっという間に田植えが終わった。機械ができるまではみんなこうやって地域で「結い」があって、助け合ってたのだろうけれど、それぞれが機械を持つようになってしまってからは、和の道具も使われなくなってしまったし、日本に昔からあった地域の相互扶助システムもあまり機能しなくなってしまった。
田植えは確かに大変だ。僕はその中でも一番若いくせいに、植えるのが一番遅く、早い人の半分ぐらいのペースだった。でも、8人いると結構早い。人間も1人だとできることは知れているかもしれないけれど、8人でやれば、話しながらできるし、スピードだって8倍いやそれ以上になる。それは機械に比べれば遅いかもしれないけれど、みんなで力を合わせれば、色んな事ができる。
田植えが終わった後の田んぼは凄く気持ちいい。朝にはおしくらまんじゅうをしていたケンゾーさんが育てた苗は、きれいに整列して並んでいる。稲作は田植えをして終わりではなく、ここから除草というこれまた大変な作業があるが、秋の収穫が楽しみだ。田んぼ一面にキレイに整列した苗を見ると、凄く気持ちいいし、疲れも少し癒される。
じゃんさんは以前僕にこんなことを話してくれた。「人間の手これは凄いねんで」って。字も書ければ、絵も描ける、箸だって使えるし、何でもできる。田植えだってできる。それをボタンを押すだけ、機械を動かすだけに使うのはもったいない。じゃんさんは僕にそう言った。僕はちょっとびっくりした。でも確かにそうだ。この何でもできる手を、機械を動かすだけに使うのはもったいない。田植えだってできるし、除草だってできるし、稲刈りだってできる。それを機械に全部させてしまうのは確かにもったいないな。自分の体精一杯使わないと。
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前を見ると壁ではなく、田があり、山があり、自然の世界が広がっている |
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植え終えた田んぼ。今年は真直ぐ植わっています。仕上がりがきれいなので田植えの疲れも癒されます。 |
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■なにげないライフスタイルの変化が、それまでの文化、環境を駆逐した。
今回のような体験をする中で、食ということを考えると、米というのは日本人に欠かすことはできない。しかしながら、この農という所からも日本の文化が、和の文化が消えていってしまっている。昔は人々が田植えや、何かをする時にお互い助け合った、「結い」というような地域社会における相互扶助のシステムのようなものもそうであるし、今回の田植えで使った「六角」というような道具にしてもそうだ。これらは先人達が、この日本で生きる為に考え作り出した、大切な「生活の文化」である。文化と聞くと、人は寺や神社というような事を思い浮かべるかもしれないが、生活の文化と言うこともある。
なぜ文化、和のくらし、和の文化が大切なのだろうか?それは、失われた文化というものはなかなか取り戻すことができないからだ。だからこそ、生活の文化ほど大切なものはないのではないかと考える。神社や寺、お城というような、大きなモノ、というものは注目も集めやすいし、それを残そうという動きもある。しかしながら、生活の文化というのは、一度それが失われると、なかなかそれを元に戻すことは難しい。全てのことにおいて、文化がいい。和のくらしがいいという気は毛頭ないが、文化が育つにはそれだけの理由があったはずだ。文化は気候、風土が違えば異なる。だからこそ多様であり、多様であるからこそその土地で生き抜くことができたのだろうし、文化としてその地域に根付いたのだ。それは時間という名の「篩い」が時間をかけて少しずつ少しずつ洗練していったものである。
レポート 京都精華大学 人文学部 環境社会学科4回生 塩澤順哉
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