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大正前期:少年時代その2 |
明治42年ー大正10年(1909-1921) |
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大正時代前期とは。
◆世相語…官僚、社会奉仕、ポスター、ヨーグルト、銀ブラ、ゴム下駄、民主主義、人道主義、ガチャガチャ、平民宰相、平民食堂、女一揆、非立憲内閣、デモクラシ−、普選、イージー、サボる |
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絣の着物に袴姿。袖からはラクダが? |
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■尋常小学校入学■ |
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大正4年(1915)挙母第二尋常小学校(現豊田市立根川小学校)に入学します。小学校入学前まではほとんどお寺で過ごしていたおじいちゃんですが、小学校に入学し初めて他の社会を知ることになります。
当時の学校の入学式はそんなにたいそうなものではなかったといいます。田舎には珍しく学校の男の先生は爪入りの黒の洋服。今でたとえると高校生が学校の先生をしているようなものです。一方、女の先生は着物に紫の袴をはいていました。先生は下宿か歩きで学校へ来ていたそうです。イメージとしては映画『二十四の瞳』のような感じだと思います。
8時半頃学校に行き、修身、国語、算術、唱歌、体操。高学年で理科、地理、歴史を勉強していました。道徳は修身、算数は算術、音楽は唱歌、体育は体操と言っていたそうです。唱歌の時の楽器は足踏みオルガンだけでした。教科書は一人一人あり、進級すると買ったそうです。クラスは15〜20人くらいだったそうです。ちょうど『二十四の瞳』のような感じでしょう。 |
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絣の着物で記念写真 |
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■文字通りの遠足■ |
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学芸会は歌を歌ったり、浦島太郎の劇をしたり、剣舞をしたそうです。運動会もありました。みんな着物で走っていたそうです。もちろん女の子も。遠足は文字通り遠足で、低学年で水源(片道約●キロ)、中学年で越戸(片道約●キロ)、高学年で松平の高月院(片道約●キロ)。ずっと歩いていきました。
修学旅行もありました。一泊泊まりでお伊勢さんにいきました。開通したての鉄道に乗って、上挙母から名古屋まで三河線、名鉄を乗り継ぎ、名古屋から省線(旧国鉄、現JR)に乗り出かけたそうです。
小学五年生頃に自分専用の自転車を買ってもらったそうです。もっともお寺には大人用の自転車はありましたが、まだめずらしかったそうです。 |
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見よ、この日本率!! |
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■コラム:名前の由来■ |
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このころのほとんどの小学生の男の子は丸坊主に、絣の着物を着てい袴をはき、布製の堤げかばんを右肩から左下にかけて通学していました。
みんな学生帽をかぶり、夏には白いカバーを掛けていたそうです。帽子だけは早くに西洋化したようです。
明治40年代ごろにはほとんどの子どもが小学校に通うようになります。子どもたちが洋服を着てランドセルを背負って通学するようになるのは、大正末期から昭和初期にかけてだそうです。
このころの遊びとしては「石合戦」や「チャンバラ」などです。石合戦は本当に石を投げ合っていたそうです。川向こうの村の子どもたちと競い合ったと云います。
また『赤い鳥』や『金の船』など童話や童謡が相次いで創刊されます。それまでは子ども向けの歌は唱歌といわれ、お上(文部省)の指導でつくられていたそうです。しかし、子ども本位の歌、つまり童謡をつくろうという気運が高まります。「赤とんぼ」「七つの子」「てるてる坊主」などはこの時代の名曲なんです。 |
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■村に電気が通ったぞ!!■ |
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お寺の明かりはランプが主だったそうです。兄弟子といっしょに並んでいる文机の上には、灯心に菜種油をひたしたランプがあったそうです。学校から帰ると「ランプ掃除」といってランプのガラスを拭く作業がありました。
明かりとしては他にも行灯、寝床で燭台、長興寺の家紋の入った提灯もありました。
おじいちゃんが小学生の高学年のころ(大正7、8年)、いよいよ電気が村に通ります。初めての電気に村中が喜んだと言います。それまでにも大きな町には街灯は在りましたが、当時はまだ電気は怖いもの、ちょっとふれても危険と思われていました。
おじいちゃんの記憶通り、あの松下幸之助が独立して電気器具の製造販売にあたる決心をし松下電器製造所を創設するのが大正7年(11918)です。 |
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大正7年夏、富山県から始まった米騒動は全国各地に広がります。
米不足と投機のために米価が急騰し(バブルの土地投機みたいなもんでしょうか)、さらに満州支配の野望を秘めたシベリア出兵による大量の米の思惑買いが拍車をかけました。
米価をつり上げた投機商人、米穀取引所、豪商の家などに、米の安売りや寄付を要求し、受け入れられないと打ち壊しや焼き牛をしました。
こうして7月から約50日の間に東北3県と沖縄をのぞく地域で米騒動がおこり、軍隊も9万人動員されたほどでした。
この後、米騒動は都市住民のストライキなどに発展し1920年代の破壊大衆運動の原動力となっていきます。 |

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大衆電化時代の申し子、松下幸之助は和歌山県の地主の家に生まれます。しかし、父親が米相場に手を出して失敗。11才の時に大阪に小僧として出されます。火鉢屋、自転車屋などを転々とし、当時注目されつつあった電気の将来に目を付け、17才で大阪電灯(現関西電力)に転職。
そして大正7年(1918)に松下電器製作所を創設。大衆檀家時代を予見し、照明の他にもラジオ、アイロン、扇風機などを昭和初期までに広めていきます。
それにしても「生産者の使命は、貴重な生活物資を水のごとく無尽蔵にたらしめることだ」と『水道の哲学』で云っておりますが、果たして本当にそうなのでしょうか。
ビルゲイツは大衆情報化時代の申し子かもしれません。いずれにしても功罪はあります。できれば今度の大衆情報化時代は罪が少なくあってほしいです。 |

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1915年、幕末から長州藩の尊攘派として活動していた井上は、維新後大蔵省に出仕します。その影にはいつも商人がつきまとい、西郷隆盛にして「三井の番頭さん」と言わしめるほどでした。実際、後に三井財閥の最高顧問になります。
その後、財界に強い元老として生き続け、長州閥の中心人物となります。骨董の趣味もありましたが、財界人から借用してそのまま返さないものも少なくなかったとのことです。 |
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