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大正前期:少年時代その1

明治42年ー大正10年(1909-1921)

 大正時代前期とは。
◆ファッション…男:学生マント中折れ帽、オールバック、ゴム靴 女:女給のエプロン姿、学生のリボン、カチューシャ、大島紬(着物の生地)、ハンドバッグ、割烹着
◆登場…大正琴、国産小型自動車、国産蒸気アイロン、国産キューピー人形、亀の子たわし、割烹着、養毛剤、シャープペンシル、チューインガム、電気扇風機、カルピス、電気のソケット、森永チョコ、ノーシン、コカ・コーラ、ファスナー



村の人たちにも慕われていた妙喜和尚

■明治末期に生まれて■

 おじいちゃんは明治42年に生まれます。明治42年といえば、ベストセラーに『それから』(夏目漱石)『田舎教師』(田山花袋)、流行歌には『ハイカラ節』『金色夜叉の歌』、日本初の映画雑誌も創刊されています。
 物価としては東京の銭湯が2銭(文字通り銭湯)、床屋が10銭。森永の板チョコもこの年です。教科書をつくっている 日本書籍、東京書籍、大阪書籍もこの年にできています。東京でビアホールの大流行、生糸の輸出額が世界一になります。
 この年生まれた人には女優の田中絹代、杉村春子、俳優の佐分利信、上原謙、作家の太宰治、松本清張、映画評論家の淀川長治、小森のおばちゃまとしてしたしまれた小森和子などがいます。亡くなった人と言えば伊藤博文(68歳)、二葉亭四迷(49歳)。そんな時代におじいちゃんは生まれました。
 明治末期は、日露戦争の勝利(1905)の勝利により資本主義体制のもと本格的な近代社会の形成期に入っていきます。その10年前、約6000だった会社数も1万を超え、学校の先生、お医者さん、サラリーマンなど都市型の知的中間層が社会勢力として大きな位置を占めるようになってきました。そんな世相の中で、おじいちゃんは産声を上げました。
 おじいちゃんは幼少のころ、ずっと着物を着ています。おっかさんのこしらえた綿の絣の着物。平常着は二着ほどあったと言います。近所の子らもみんな着物で、襟は垢がついていてこぎれいではありません。でもおじいちゃんは比較的きれいなおべべを着ていたそうです。もちろん家族みんな木綿の着物です。



お寺ですくすく育った

■毎日着物を着て育つ■

 平常の食べ物は、ご飯は米七分に麦三分のご飯。お魚は塩鮭(しおじゃけ)をよく食べたそうです。それとおみそ汁。お肉は滅多に(全くにちかいくらい)食べていなかったそうです。
  妙喜和尚が上座に座り、向かって右列の手前におじいちゃん。その奥におかっさん。妙喜和尚の左列には2人の兄弟子。下男がいるときは兄弟子のさらに下手に座っていたそうです。妙喜和尚は高膳で、他の人は箱膳でした。ちゃぶ台はまだありません。
  おかっさんがご飯などをよそり、それをみんな手渡しで回したそうです。おかずはみんな膳の上に乗っています。もちろんみんな一斉に「いただきます」「ごちそうさま」だったそうです。後片ずけはそれぞれ自分でしたそうです。
  食事はとっても質素だったけど、これが長寿の秘訣だった、理想的な食事だったと当時を振り返ります。おやつはあまりありませんでしたが、蒸しカステラという小麦粉に砂糖を混ぜたものをおっかさんが作ってくれたそうです。
 おじいちゃんは幼少の頃、ほとんどお寺で過ごしたそうです。



修行を終えたころの格道さん

■コラム:名前の由来■

 ちなみに格道、至道の「道」というのは、代々長興寺のお坊さんの正式名称につけているのだそうです。妙喜和尚は「慶道妙基(けいどうみょうき)」といい、おじいちゃんは「弘道世雄(こうどうせいゆう)」といいます。
 当時のお寺にはこういった内弟子が弟子入りして修行していたそうです。他にも6人くらいでたり、入ったりしていました。農家の次男三男が多く口減らしの意味のあったそうです。学校へは行かせることができず、お寺に入れて、中学校を卒業と同時に止めた弟子もいたり、寝小便でお庫裏さんに怒られてやめた弟子もいたそうです。
 また下男(または寺男(じなん)とも呼びます。『男はつらいよ』に出てくる源ちゃん)の人もいましたが、長くいるひとはあまりいませんでした。風呂たき、薪、お寺の掃除を手伝ったりする人で、いわゆる無宿人や風来坊の人たちで、当時のお寺ではそういった人たちを更正する場でもありました。


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 おじいちゃんの生まれた明治42年(1909)のもっとも大きな出来事は、明治の元勲、伊藤博文の暗殺です。
 明治38年に韓国と保護条約を強引に結び外交権を手中にし、明治40年には内政全般に介入。
 幕末、日本が欧米にやられたことと同じ子とを韓国に対してしてきました。
 結果的にこの暗殺の翌年には、韓国を植民地にしてしまいます。


 明治38年(1905)に日露戦争が終わり、戦勝国となった日本は景気が上向きになりました。さらに大正3年(1914)からはじまった第一次世界大戦でも国益が大幅に増大して、人々の暮らしは豊かになっていきます。明治維新の後、欧米の文明を取り込み、大正に入りようやく実を結ぶことになります。
 大正時代は明治時代に入ってきた西洋的なものや舶来文明が、日本の風土に定着し、生活の中にとけこみ、都市文化、よりよい暮らし、個人主義的な傾向の発達した時代といえるのです。明治時代が生産文明なら、大正時代は消費文明かもしれません。