|
昭和前期:社会人時代その2 |
昭和9年ー14年(1934-1939) |
|
|
|
 |
昭和時代前期とは。
◆世相語…昭和維新、天皇機関説、今からでも遅くはない、忘れちゃいやよ、前畑ガンバレ、馬鹿は死ななきゃなおらない、愛染かつら |
|
 |
社会人として背広姿のおじいちゃん |
|
 |
■二足のわらじ■ |
|
|
|
一年の修行を終え、おじいちゃんは長興寺に帰ってきます。帰ってきた当初は、文章による布教したかったでの、布教のためのパンフレットなどをつくったりもしてみたそうです。
その後は長興寺での修行とともに、他のお寺や老師にもついて通参します。名古屋の徳源寺の古仲老師、鎌倉の円覚寺の朝比奈宗源老師、京都の南禅寺の柴山全慶老師などにつきます。重要な修行の時があるときに1週間から2週間通参します。老師から公案をいただき、座禅の回答や解決を聞いたいただく。そういう通参の修行が2、3年続きます。
円福寺の修行が終わってからおじいちゃんは通参と同時に愛知県の職員に任官します。愛知県の社会福祉事業の活動をする部署に配属され、奉面委員(民政委員)、社会事業指示補になります。これは先輩が紹介もあり、またおじいちゃんが僧侶であることも幸いして、就職できたそうです。電車で毎日通います。上挙母から知立まで行って堀田で市電に乗り換える。サラリーマンです。おじいちゃんはこの時はじめて背広というものに袖を通しました。
朝は9時始業で、5時まで仕事があったそうです。仕事場では背広で、うちでは着物。まさに『波平さん運動』ですね。 |
 |
当時の修行姿(長興寺本堂前) |
|
 |
■慈善事業に従事■ |
|
|
|
はじめは、松坂屋が慈善事業の一環で経営している名古屋の奥田町にあった「衆善館」に通
いました。ここは貧民のための保育園、老人ホームのようなもので、後の人生のために非常に勉強になったといいます。衆善館は現在でもあるそうです。
その後、加茂地方(愛知県東・西加茂郡)の事務所に転属になります。そこでも同様に保育園の指導や、農村地域ですから、夏の農繁期託児所の指導もしたそうです。農繁期託児所は多くの場合、お寺で開かれていたそうです。
そんなふうに大学卒業後、おじいちゃんは社会人をしながら、禅の修行も進めていきます。
|
 |
田中絹代(左)と桑野通子(右) |
|
 |
■コラム:まだまだ映画も全盛■ |
|
|
|
おじいちゃんの好きだった映画。僕も今、その時代の映画をレンタルビデオ屋で探してきてよく見ます。その時代の暮らしぶり、若者の悩みなどリアルでとても興味深い。
昭和の前期になって日本映画もトーキーの時代に入りました。昭和10年公開された413本のうち3分の1がオールトーキーでした。トーキーは業界の近代化、大資本化を招きます。僕の大好きな松竹もこの次期、東京の蒲田から神奈川の大船に撮影所を移します。
昭和13年9月15日に封切られた『愛染かつら』は空前の大ヒットを記録します。「花もー嵐もー、踏み越えてぇー」のあれです。主演は田中絹代です。僕の大好きな女優、桑野通子も出ています。恋愛物語です。
しかし、昭和12年にはじまった日中戦争が本格化してくると、映画界にも次第に影響が出てきます。昭和14年には映画界の翼賛会的な日本映画人連盟が発足し、国策遂行のための組織作りもはじまります。脚本の事前検閲も始まります。昭和15年には国策映画も強制的にはじまっていくのです。
|
 |
都会人向けのアパートの広告 |
|
 |
■コラム:農村と都会は大違い■ |
|
|
|
生活が当時の言い方で文化的になるにしたがって、家電製品の次第に一般
家庭に入るようになりました。昭和10年にもなると主要なものはほとんど国産化が進みます。電気かまど(電気炊飯器ではありません)、電気コンロ、トースター、卵ゆで機といったように炊事用の電熱器具。電気時計、電気アイロン、掃除機、洗濯機、家庭用電気冷蔵庫にまでおよびます。
でもこれは都市部のしかも一部の階層だけで、一般の家庭、とくに農村部では現在の言い方で文化的でした。家電製品といえば照明だけで、電気のエネルギーを使った道具はありませんので、人力や自然のエネルギーを利用しています。。おじいちゃんの話では、お寺では、農繁期に託児所を営んでいたので、そのためにラジオと蓄音機を購入し、子供たちに『ハトぽっぽ』などの童謡を聴かせていたそうです。お寺は現在と違って社会福祉事業の一翼も担っていたことがわかります。今のようにわざわざそういった『箱モノ』をつくらなくてもいいわけです。
ちなみにおじいちゃんが学生時代の終わりごろ、チャックのついた鞄を買ったそうです。当時チャックが出始めたそうです。また爪切りもそのころはじめて出たそうです。それ以前ははさみで切っていたそうです。他にお寺では電気アイロンはありませんでしたが、炭を入れるアイロン、金属部分を熱して使うコテはあったそうです。 |
 |
徴兵は当時の若者の悩みでもありました |
|
 |
■コラム:徴兵がやってくる■ |
|
|
|
昭和12年の初頭兵役法が一部改正され、徴兵検査の身長基準が155cmから150cmに引き下げられ動員兵力が増加されました。昭和6年にはじまった満州事変、翌年の上海事変などの結果
です。国防方針も仮想敵国をソビエトとアメリカとしたようです。
徴兵検査は、身体調査によって甲種など6種ほどにふりわけられ、うち上位 の甲種が「現役ニ適スル者」として合格となりました。徴兵の適齢者は毎年60万人〜70万人ほどいて、そのうち合格が30%程度。昭和8年ごろまでは30%の合格者の中から50〜70%くらいが徴収されましたので、現役徴集率は徴兵の適齢者の20%程です。これが昭和12年には23%、昭和13年には44%、昭和14年には47%程になっていきます。つまり上位
3種だけでは兵が足らず、上位3種まで拡大していったのです。
おじいちゃんの場合、大学に行っていたので、学生中、徴兵は猶予されていました。 |
|
|
 |
|
|
 |
昭和12年7月7日、中国は北京郊外の外盧溝橋事件(北支事変)の勃発による日中戦争の開戦します。戦線は拡大し、5ヶ月後、12月には「南京陥落」に国内はわきました。
その裏には、それだけの若い日本人が兵隊として、戦地へおもむいていったということでもあります。
召集は、集合日と時間、集合場所、部隊名が書かれた召集令状、いわゆる赤紙によって行われます。
「戦争の機運」は新聞報道があおり、召集美談が紙面を飾りました。 むろん「南京陥落」の紙面には「虐殺」については知らされていません。 |
|
 |
昭和10年日本初の流線型電気機関車が誕生します。
もともと流線型は飛行機の発達に伴って注目されるようになりました。その後、鉄道、自動車とその流行が広がります。
流線型は乗り物だけにとどまらず、洋服や帽子、髪型といった服装分野、アイロンやラジオなど家電製品、玩具や万年筆、建築物まで広がっていきました。
この流線型の流行は、商品にとってその機能とは別にそのデザインも重要な要素であるということを意味しました。このことは、機能はまだまだ有効なのに、デザインが古いから次に買い換えるという、現在の消費行動につながっていきます。 |
|
 |
流行歌の人気が一般 に定着してきました。これは映画の発達、ラジオとレコードの普及という要素があったからだそうです。ちなみにレコードが日本で最初に生産されたのは明治42年。つまりおじいちゃんの生まれた年です。ちなみのちなみでエジソンが蓄音機を発明したのは明治10年。32年後には日本でもレコードが生産されたということです。
歌手志望の夢が忘れられず、8年間のサラリーマン生活(満鉄勤務)をやめ、歌手デビューを果 たしたのが東海林太郎です。他にも映画の主題歌や女性歌手もいました。
渡辺はま子の『忘れちゃいけないよ』や淡谷のり子の『別 れのブルース』は官能的な歌い方が、風紀上よくないということで発禁処分を受け、逆にプレミアがつくほどの取引があったそうです。プレミアがつくなんて今とあまり変わりませんね。 |
|
 |
このころ 『小さな喫茶店』という流行歌が昭和10年にはやりました。喫茶店とはお酒を扱わないカフェーの新しい呼び名です。昭和の前期から使われるようになった言葉です。昭和10懇ろには全国で3万件、うち東京に1万件以上ありました。このことからも喫茶店も都市文化の象徴だということがわかります。
その始まりは今とは違って、店の女性の店員がお客の傍らに座って話し相手をしていたそうです。それが次第に、娯楽の場から憩いの場へと、現在のような喫茶店になっていきます。
中国での戦局拡大の一方で、都会ではまだまだ戦時気分はありません。そういった意味でまで「戦前」であり、「戦時中」ではありません。 |
|
 |
昭和10年10月発行の小石清による写 真論集『撮影・作画の新技法』に載っていた『疲労感』。その技術は一個の時計を書き付けながら印画紙を移動させるという技法。戦前のモダニズム、前衛写
真です。その技法もさることながら、都市と暗い空にさまよう時計という構図は、まさに疲労感。この当時も「疲労」という言葉があったのには驚きです。 |
|