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昭和前期:社会人時代その1

昭和9年ー14年(1934-1939)

 昭和時代前期とは。
◆ファッション…<軍国調ファッション><夏期の洋装スタイル急増> 男:開襟シャツ 女:パーマからロール巻き、マフラー こども:セーラー服
◆登場…松下・東芝などの家電メーカー、アルマイトの弁当箱、サントリーウイスキー角瓶、代用品、日の丸弁当



はじめての背広姿(大学キャンパス?)

■東京暮らしを終え、帰郷■

 おじいちゃんは7年間の東京での学生生活を終えました。やはり東京の暮らしが輝いていたのでしょうか。はじめは、しばらく東京で就職ようと思ったそうです。もともと、本の好きだったおじいちゃんは、編集などに興味を持ち、いろいろな変種社や雑誌社を回ったそうです。
  しかし、一方で仏教の道も忘れがたく、慶応大学の先生で、新しい仏教の真理運動を始めた、友松円訂(えんてい)先生のことを知り、それに参加しようと思いました。
  先生も是非、仲間に入れとおっしゃっていただいたそうですが、やはり早く修行に入ったほうのがいいんじゃないか、また妙喜和尚も高齢であったことから、考えが変わり、東京の就職をあきらめて、帰郷することになります。このころはじめて背広を着たそうです。



当時の修行姿(長興寺本堂前)

■修行の道、禅の道へ■

 帰郷後、おじいちゃんは京都府、今の京都府八幡市にある円福寺という禅寺に修行に行きます。行脚僧の雲水姿になりました。住職の神月撤宗(かみづきてっしゅう)老師は、当時あたらしい現代人向きの禅宗を展開していたことを聞き、そこを選びました。
 おじいちゃんは僧堂のなかでは「しっさん」と呼ばれていました。円福寺では名前の下の文字で名を呼ぶのが習わしでした。おじいちゃんの名は世雄ですので本来「ゆうさん」と呼ばれるはずですが、兄弟子に「ゆうさん」がいたので、老師がここでは「世室(せいしつ)」という名を付けたので、「しっさん、しっさん」と呼ばれたわけです。
 修行は、座禅が主で、座禅をしていないときは、お寺の掃除、労働、百姓もしたり、タケノコの栽培。草鞋履き各地に訪ねて、托鉢や大八車に大根を集める大根鉢もしたそうです。要するに座禅以外はお寺の作務をしたわけです。そのころ、作務衣はなかったそうです。それまでお坊ちゃん育ちのおじいちゃんには大変な修行であったといいます。



長興寺の国重要文化財絹本著色仏涅槃図

■ひたすら座禅と禅問答■

 禅宗の修行では座禅が最も重要でお経を読むよりも、公案(こうあん)とよばれる禅問答の回答を座禅によって解決することをしていたそうです。
 たとえば「だるまさんには、なぜひげがないのか」。普通のだるまさんにはひげもじゃだけど、こういった矛盾したことを座禅によって考えるわけです。心理的な展開をはかり、座禅によって答えを導く。公案を練って座禅三昧になるそうです。これはしいじゅうしていて仕事以外には座禅をやっていました。
 どこの禅寺でも最初の公案はだいたいいっしょだと言います。それは「隻手(せきしゅ)の公案」です。唐紙(障子戸)の外で、畳にすれるほど、頭を下げて、挨拶をしてから、老師のところにいって、挨拶をする。それを参会ほど繰り返すと。老師が「隻手の公安」を与えます。老師は片手を弟子の前にだして、「両手をたたけば音がする、片手の声を聞け」というものです。その答えを弟子たちは座禅をしながら考えるわけです。弟子が、何度回答を持っていっても、老師は「声をなんか聞こえん」と横にある鈴をりりんとならして、「帰れ」と言います。また弟子が回答を持っていっても声は聞こえない。そういうことが修行です。



修行と学問は違う

■学問の癖を捨ててこい■

 修行では新聞もよめない。世の中のことからいっさい離れる。そういう世界にはいあらないなと隻手の声は聞こえない。一般の世界では聞こえない。老師は「学問とは違う。学問の癖を捨ててこい」と言うそうです。学問は一般の世界であり、相対意識が学問の原理原則で、世の中であり、世界観、知恵です。しかし世の中の事からいっさい離れることにより、絶対的な知恵を心の中に磨き出せと老師は言います。
 「自分の心の中に、安定した理想の世界、不動の世界を確立して確保する、正しい人間の一生を進んでいく力を付けていく」これがどの宗教に共通することで、後は手法の問題だとおじいちゃんは言います。しかし、こういったことは禅の修行で会得するものではなく、これは学問としての捉え方で、大学で教えてくれる内容だそうです。



現在の円福寺

■コラム:おじいちゃんの修行したお寺■

 京都の八幡市にある円福寺は江戸時代の中期、天明年間(1781−88)開創された臨済宗妙心寺末の修業道場です。山門座禅堂などを備えた伽藍は江戸時代末頃より整備され、現在も多くの雲水が修業し専門道場としての規模を誇り、今でも雲水(修行僧)の姿が見られます。
  円福寺にある達磨大師坐像は、鎌倉時代の木像で大和国達磨寺から八幡に移り石清水八幡宮社務田中家に秘蔵されていたもので、江戸末期の文化4年(1807)に安置されました。三大達磨のひとつといわれ、国の重要文化財に指定されています。 毎年4月20日と10月20日の万人講には、達磨像が開帳され、赤膳のおときをいただくと開運厄除け中風除けの霊験あらたかと信仰されています。


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 昭和に入り日本陸軍の中国進出による満州事変にはじまり、五・一五事件、国際連盟脱退など政治的には軍部の不審なかげが見え始めました。昭和も10年が過ぎるころになると、軍部や右翼団体の台頭が激化してきます。
 昭和11年、陸軍の青年将校による二・二六事件が勃発します。さらに陸海軍大臣の現役武官制の復活を期に軍部独裁体制の基礎がつくられはじめます。
 ただし都市と農村部ではその感覚に差があり、暮らしぶりは臨戦態勢という感覚はなく、軍部が中国で戦争をおっぱじめたらしいぞ、はよ終わらんかやーという感じだったといいます。
 ちなみに 二・二六事件を起こした青年将校の年はちょうどおじいちゃんと同じ明治末期から大正初期の生まれの青年でみんな30歳前後です。

 この時期(昭和初期の不況時代)、左翼運動の高まり(ソビエト連邦成立は大正11年)と都市部の知識人の急進化に支えられプロレタリア芸塾運動が、理論面 、実践面で圧倒的な力を発揮しはじめました。
 昭和7年になると、政治的抑圧も厳しくなり、検挙、発禁などの処分を受ける人たちも少なくなかったそうです。
 ちなみにはじめて普通選挙が実施されたのは昭和3年で、同じ年、特別高等警察(特高)の設置されました。

 このころ安い労働力が求められたこともあって、賃金労働の職場に多くの女性が進出しはじめます。その職種は学校の先生、看護婦(現在の看護師)などの専門職をのぞくと、工場労働者、女中、女給などが多かったようです。
 そうした中で都会の女性たちは小じゃれた制服に身を包み、安定した給料が得られることからサービス業に人気が集まります。彼女らはサービスガールと呼ばれます。
 サービスガールは喫茶店、デパート市バス・市バスなどで活躍しました。

 昭和初期、不況の時代に都市部を中心にエロ・グロ・ナンセンスの風潮が生まれてきたそうです。エロティックはカフェーやバーでの「桃色遊戯」や短いスカートなどを指し、グロテスクは怪奇性などを意味し、ナンセンスは軽演劇や文学にみらた笑いを指したそうです。
 これはモダンと同様に特にアメリカの風俗の影響によるもので、不況という重苦しさだけでなく、既成の道徳からの解放もその一面に感じられたそうです。