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戦時中:その3

昭和15年ー20年(1940-1945)

 戦時中とは。
◆ことば…ドレミファ→ハニホ、 パーマ→電髪、コロンビア→日蓄工業、キング→富士音盤、ビクター→日本音響、ポリドール→大東亜蓄音機、テイチク→帝蓄、ニュース→報道、アナウンサー→放送員、レコード→音盤、ピアノ→洋琴 ヴァイオリン→提琴 コントラバス→妖怪的三弦



おじさんが生まれます

■大東亜戦争開戦■

 おじいちゃんが結婚して、一年が過ぎようとしていた昭和16年12月8日、日本はアメリカの真珠湾を攻撃し、アメリカとの全面戦争にはいります。おじいちゃんたちはお寺のラジオでその大本営発表を聴いたそうです。いよいよはじまってしまった、たいへんなことをはじめたなぁ。大丈夫かな、不安が募ったそうです。
 その後、大本営は勝ったことばかり宣伝ばかりするから信じていたそうです。おじいちゃんはどうせやるならかつ方がいいという程度の思いはありました。そのころ、おっかさん毎日国防婦人会で兵隊を見送りにいったり、公会堂に集まって千人針、慰問袋を作っていたそうです。
 破壊の戦争の時代にあって、創造は数少ない明るいことでした。昭和十七年、ぼくのおじさんが生まれます。はじめての子供、しかも男子。子供の誕生は祝ってもよく、といってもおこわご飯を炊いた程度でした。
 とはいうものの、この時期日本軍はミッドウェーで負け、ガナルカナル島を占領され、戦争の前線は一歩一歩、本土に近づいていました。
 事実、当時の挙母の町は小さな町でしたがトヨタの工場があったので、昭和18年8月14日に爆弾が後されています。



近くのお寺でのお葬式も手伝いに

■軍威高揚の講話に従事■

 昭和19年、僕の母、洋子が生まれます。太平洋の「洋」をとって洋子?。その年、大都市に疎開令が出て、サイパン島、グアム島などで日本軍が玉砕していましたが、おじいちゃんたち、一般人は日本がまだ勝っていると思っていたそうです。
 そのころ、おじいちゃんは毎日、各地の小学校にいって「兵隊さんが、戦地にある兵隊さん」などと、行程に集められた一般の人たちに軍威高揚の講話をしに出かけていました。歩いていったり、自転車を付近に借りて数十キロ離れた山村まで出かけます。そのスケジュールは自分で決めていく。大変なことだったといいます。トヨタ自動車の工場が近くにあり、そこにも焼夷弾が落ちたそうです。お寺にも焼夷弾からが落ちてきた瓦がいたんでいました。
 そのころ妙喜和尚は戦争は関係なく、もくもくとお寺を守っていました。またお経に行っては、お米をいただいたりしていましたが、法事をやることが少なくなり、竹藪に入って竹を刈ってきては、子供たちの養育費に当てていたそうです。おじいいちゃんも休みの日曜日(休みの日は戦前も日曜日だけでしたが、戦時中はますます忙しくなっていたそうです)は、手伝っていたそうです。
 お寺は比較的に恵まれていて、配給のお米以外に檀家さんがいくらか都合してくれたり、物々交換したり、お米をいただいたりする事もあったそうです。境内も至る所がサツマイモやカボチャ畑になり、それをお米にまぜて、お粥をつくり、煮干しなど添えて、かろうじて一日三食は食べていたそうです。砂糖、塩なども役所の人が配給以外にもくれたそうです。また村に山羊を飼っていた家があり山羊の乳を飲むこともできたそうです。このころ夜は灯火管制で真っ暗だったと言います。



親戚もみんな兵隊に

■遺書も残さずに■

 僕のお母さんが生まれた年、おじいちゃんにまた召集令状が届きます。三月(みつき)召集といて兵隊に3ヶ月間とられる召集です。今度は名古屋へは行きました。そこでは、毎日大砲打ったり、ひっぱったりする訓練を受けたそうです。毎日、そこから中国へ送られていました。今度は戦地に送られるなと思ったそうです。体の弱かったおじいちゃんに、看護兵が親切にしてくれたといいます。そして運良く、2度目も外地へは行かず、3ヶ月で帰郷することができました。
 しかし、その数ヶ月後、3度目の召集令状が届きます。今度は補充兵として召集を受けます。昭和19年の夏だったといいますから、終戦のちょうど1年前です。この時期、軍部は南方への補充兵としてどんなやつでもいいから引っ張って使うという方針です。そのころの封書の切手代が1銭50厘。1銭50厘でいくらでも兵隊が作れるというわけだったとおじいちゃんは振り返ります。このころになると神社などでの万歳もなかったといいます。箒を持って銃のかわりにする、ホントにあわれなもんだったと振り返ります。また兵隊の服もなく、ぼろぼろの靴。とてもかてるわけがない。負けて当然の状況だったそうです。
 おじいちゃんたちに対し、1回目と同じように准尉さんは病気のあるものを横に出るように指示します。ちょうど、その時、前回の召集の時の知り合いだった看護兵がいて、おじいちゃんを見て、軍医さんにこれがだめですと伝え、本当に運が良く、3回目も「即日帰郷」になります。



■昭和20年8月15日を迎える■

 昭和20年(1945)の6月、沖縄が陥落したとき、おじいちゃんはもう日本は負けると思ったそうです。それ以後も、職務は続けていましたが、軍威高揚をはかる講演のいっさいをやめました。原爆が落とされたことを聞いたときは「なんか特別な爆弾が落ちらそうだぞ、もっと頑丈な防空壕をほらないいかんぞ」と村の人たちと話していたそうです。まさか原子爆弾が落ち、あのような悲惨な状況になっているとは知るよしもなかったそうです。
 昭和20年8月15日、防空壕を掘っている村の人がおじいちゃんに「まあ戦争が終わったで、防空壕をほらんでいいよ」と言ったそうです。その正午、はじめて玉音放送を通して天皇の声を聞ききました。よぼよぼで録音、音響が悪いので、ところどころわかるが、しっかりとその内容はわからなかったといいます。日本が負けた、つまり敗戦だとは思わなかったそうですが、ただ戦争は終わったのだと言うことはわかったそうです。
 「やれやれ」「これでもう空襲もない」「もう死なない」「ほっとした」「ありがたいことだ」おじいちゃんは思ったそうです。


[ 語ろう運動の主旨 ]

 

 ドレミファ→ハニホ、 パーマ→電髪、コロンビア→日蓄工業、キング→富士音盤、ビクター→日本音響、ポリドール→大東亜蓄音機、テイチク→帝蓄、ニュース→報道、アナウンサー→放送員、レコード→音盤、ピアノ→洋琴 ヴァイオリン→提琴 コントラバス→妖怪的三弦、ビール→麦酒、乗合自動車:オーライ→発車、バック→背背、
野球用語:セーフ→よし、アウト→ひけ、ファウル→だめ、三振→それまで、ラグビ−→闘球、


 映画の世界から戦時色を見てみると昭和18(1943)年ごろからとくに激しくなってくる。松竹ホームビデオを昭和15年から19年を見てみると以下のようになる。意外にも回線当初は恋愛映画や喜劇などが上映されている。
1940
暁に祈る(国策)
美女桜〜暴風篇・黎明篇(時代劇)
信子(現代劇)
都会の奔流(現代劇)
1941
戸田家の兄妹(現代劇)
みかへりの塔(現代劇)
偽らず(現代劇)
桜の園(現代劇)
京洛の舞(現代劇)
1942
父ありき(現代劇)
蘇州の夜(国策)
愛国の花(国策)
南の風(現代劇)
続・南の風(現代劇)
高原の月(現代劇)
1943
海軍(国策)
開戦の前夜(国策)
愛機南へ飛ぶ(国策)
敵機空襲(国策)
仮面の舞踏(国策)
生きている孫六(国策)
1944
陸軍(国策)
君こそ次の荒鷲だ(国策)
水兵さん(国策)
不沈艦撃沈(国策)