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戦時中:その1

昭和15年ー20年(1940-1945)

 戦時中とは。
◆ファッション…防空頭巾、着物:男は筒袖、女は元禄袖、他は禁止 男:丸刈り、国民服、ゲートル 女:もんぺ、パーマ→国策型淑髪
◆初登場・流行…マネキンの青目を黒目に、金髪を黒髪に、プラスチック製歯ブラシ登、キャベツ普及、渋谷のハチ公前のお見合い流行、史上最大戦艦「大和」竣工、アルミニウム・アルマイトのおもちゃ製造禁止、マヨネーズ・ミルクチョコレート製造中止、代用食「芋パン」登場



昭和初期、庶民には戦争の雰囲気はない

■昭和初期ーいつもと変わらず■

 ここで、おじいちゃんの学生時代の日本の状況について振り返る必要があります。
 おじいちゃんが大学の予科に入学した昭和4年、おじいちゃん20才の時、世界恐慌がおき、予科2年のとき、浜口首相が東京駅頭で右翼青年に狙撃されます。大学1年生の時、満州事変が勃発し、2年生の時、ドイツでヒットラーが首相になり、中国の東北部に満州国が成立し、五・一五事件で犬養首相が暗殺されます。3年生の時、ドイツでヒトラーが首相に就任し、日本は国際連盟を脱退します。満州国が成立した年から、大学で配属将校が来て、軍事教練が開始されました。軍事教練を週二回程度、満州国の炭坑はどこだ、これをとっとかんと日本はいかんなどといった、授業を受けたそうです。さらに一週間に二回、実際鉄砲をもって練習もしたそうで、富士山麓まで泊まりがけで演習にもでかけたそうです。
 しかし、おじいちゃんたち仲間の間では、さほど政治的な話題はしなかったと言います。どちらかというと、陸軍がなにやら力を持ち始めたなーという程度で、戦争になるという雰囲気は感じなかったと言います。



服装はまだ背広だが、後列には軍人の姿も

■昭和前期ー物騒になってきたなぁ■

 おじいちゃんが社会人になり、愛知県の職員と禅宗の通 参をし始めた頃の昭和11年、おじいちゃんが27才の時、二・二六事件が起き、日本は日独防共協定を締結します。この時期もおじいちゃんたちは職場の間でも、なにやら軍部がやっているなー、軍部がはびこりだしなーという程度で、戦争への足音は聞こえてこなかったそうです。
 翌年の昭和12年、外盧溝橋事件(北支事変)が勃発。これを機に日本は中国との戦争が始まりました。このころから、やいやい、戦争が始まったぞという雰囲気になってきたそうです。おじいちゃんはいよいよ戦争が始まるぞ、困ったな、物騒になってきたなー、心配だなーと思い始めたそうです。同級生は戦死した人も出始めました。はよおわらんかな。あんまりひろがらんようになればなとも思ったといいます。ぼつぼつ出ていた戦死者が出始めたそうです。しかし、アメリカを含めた全面戦争になるとは夢にも思っていなかったそうです。



いつしか服装も国民服に

■昭和前期ー戦時色が…■

 この昭和12年頃からおじいちゃんは戦時援護課の職務もかねることになりました。戦争に兵隊としてとられた家族に扶養の慰問袋を届けたりします。戦死した兵隊は公の葬式、公葬が行われます。そのため県知事代理として加茂地方の遺族に慰問することも始まりました。服もいつしか、背広から国民服になりました。民間で働いている人も国民服になっていったそうです。このころもんぺが出はじめ、女性はみんなもんぺ姿に白い割烹着になります。そして女性は国防婦人会に属することになります。その指導にもおじいちゃんは行き、いつしか、おじいちゃんも戦争の道へと引きづられていくのです。
 おじいちゃんは昭和14年に、高齢の妙喜和尚に変わり、住職の職務に就きました。住職に就く儀式である晋山式(しんさんしき)はまだ行いません。しいじゅう(しょっちゅう)小僧からやっていることだからさしあたってなにもなく、自然になったといいます。



あばあちゃんとお見合いを

■お見合いの末、めでたく結婚■

 さらに昭和15年の秋にお見合いをします。周りがうるさくなってきて、妙喜和尚もおっかさんが年をとってきたから、しぶしぶ受けたと言います。ぼくのおばあちゃんにあたる、大竹はつえさんのお家の応接間でやったそうです。
 おじいちゃんとおっかさん2人で出かけました。妙喜和尚は世俗のことにはあまり顔を出しませんから。おじいちゃんは別にどきどきすることもなく、このお茶を出してくれたこの娘さんがそうかーと思った程度だと言います。この日、2人は結婚することが決まります。


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 昭和14年9月1日早朝、ドイツ軍はポーランドへ侵攻します。イギリス、フランスは相次いでドイツに対して戦線を布告します。この日から昭和20年までヨーロッパでは第2次世界大戦として戦争の時代がはじまるのです。第1次世界大戦終了後(大正7年)からたった16年で平和の時代は終わりました。戦争好きの西洋人ならではです。

 昭和15年に国民服が制定されました。その大義名分は「わが国現在の服装文化が余りにも欧米風を模倣して、自主性に乏しいことを反省しなければならない…。」です。
 しかし、考現学の先駆者吉田謙吉氏の昭和17年の銀座で行った街頭調査によれば、洋服83%、国民服12%、和服5%という結果でした。国民服が普及していくのは空襲が本格化しはじめた昭和19年の末だそうです。生地やつくり等は陸軍の軍服と同系だったそうです。写真は高島屋のウィンドウです。

 昭和15年8月国民精神総動員本部は東京市内の繁華街1500カ所に「ぜいたくは敵だ!」などとかかれた看板を設置します。これはこの年の7月7日に出された、贅沢品などの製造販売も禁止する「七・七禁令」に基づくものです。「七・七禁令」は生産者、販売者への禁令でしたが、「ぜいたくは敵だ!」などの運動は個人生活への規制へつながっていくものでした。
 とくに服そう身なりについて厳しく、パーマネント、指輪、帽子、金縁のめがね、アイシャドウ、マニキュア、口紅、高価な着物、帯などです。服装の生地はスフ(人絹)であればよいとされました。 他にも料理、宴会、タクシー、ゴルフ、贈答品など拡大されていきます。
 この運動は一見、市民の自由を奪うような雰囲気を持ちますが、当時の一般 の人たちの間では、上記に該当するのは一部の成金や資本家、特権階級に限られて所有していたものも多く、生活の公平化につながると賞賛した知識者も多くいました。