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昭和47年生まれの僕は母のことを「お母さん」と呼んでいた。昭和19年生まれの母は母のことを「お母ちゃん」と呼んでいた。そして明治42年生まれのおじいちゃんは母のことを「おっかさん」と呼んで。これだけでも時代の変化を感じる。しかしそれ以上にそんなに簡単に言葉を換えていいものか、方言を含めた言葉の危機を感じる。 |
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日本髪の千代さん(明治末期) |
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■おっかさんーお千代さん■ |
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千代さんは厳しい人で、おじいちゃんも兄弟子もよく怒られたそうです。また器用な人で研究熱心な人でもありました。特に裁縫は京都にいる時から得意で、お寺に来てからも裁縫で生活を支えました。挙母の町の芸者屋の芸者に気に入るような着物を仕立て、一日おきくらいにいきました。おじいちゃんはそのお供として、行李を風呂敷に包んで、しいじゅう(いつも)、熱田屋、尾張屋といった芸者屋や置屋についていったそうです。挙母は町の規模は小さかったのですが、芸者の多いところだったそうです。時折。芸者に「坊や踊りをならいなさんよ」と言われたりしました。でもおじいちゃんは隅の方でちょこっとしていました。今思うと踊りでもやっておけばよかったといい、そのために無芸になってしまったとも言います。 |
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お千代さん |
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■裁縫で家計を支える■ |
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裁縫が得意だった千代さんは、着付け、化粧を得意にしていました。ほとんどの村の人は結婚式の時、着付けや化粧を「お庫裏さん」にしてもらっています。特に春や秋に結婚式が多く、落雁(らくがん)などをよくもらったそうです。
研究心の強い千代さんは、当時の新しい裁縫の仕方を覚えました。ミシンです。名古屋の椙山裁縫女学校(現椙山女学院)へ勉強をしにも行きました。そのため、お寺では大正12年ごろはじめてミシンを買ったそうです。
裁縫教室も開き、村周辺の16才から20才くらいのお針子さん(生徒)が集まり、お寺でしいじゅう実習していました。これは生涯の仕事でした。おじいちゃんが針の時間になると、おかっさんとお針子さんのいる部屋に呼ばれ、小説を呼んだりした。いわば、ラジオの代わりです。針仕事の伴奏です。小さいときから節を付けて、それを通して本を読むことが癖になったそうです。 |
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ずっと着物だった千代さん |
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■お寺で文字を覚えた■ |
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家の生まれのため学校へはいけなかった千代さんは、お寺に来て、初めて文字を学びます。文字(もんじとおじいちゃんは発音します)を読み書きできなかったわけです。おじいちゃんは中学に入ったとき、千代さんのために自分で漢字の字引をつくったそうです。晩年には字が書けるようになり、漢字仮名交じりの手紙も書けるようになりました。大変頭の良かった人だとおじいちゃんは振り返ります。 |
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東海道線(新橋―神戸)は明治22年(1889)に全線がつながります。日本最初の鉄道が明治8年(1872)です。なんとわずか17年。明治29年には急行も走ります。新橋―神戸間を17時間ほどでつないだそうです。106年後の現在では東京―新神戸間を新幹線は3時間9分で走破します。その僕たちは何を得て、何を失ったのでしょうか。
写真は明治時代の京都駅です。今のデザインに比べるかぼくはかっこいいと思いますが…。 |

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明治5年(1872)、学制が布かれました。長興寺は現在の豊田市立根川小学校の最初の校舎として使われるようになりました。
小学生の女子児童には「際砲術を専らにするといえども、傍ら行儀作法を教うへし」として「手芸」(後に「裁縫科」となる)が教えられました。裁縫と作法は基本であったようです。
学校以外にもお寺にも来ていたようなお針子さんと呼ばれる成人前の女の子は、裁縫を仕事にし、家族の一員として家計を支えていたそうです。 |
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