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僕が昭和47年生まれ。母が昭和19年生まれ。おじいちゃんが明治42年生まれ。その上の世代は実は幕末の生まれだったんです。これは驚きでした。行ってみれば坂本竜馬とちょっとばかりだぶっていたわけです。幕末ってそんなに遠くはないんだなーって思いました。 |
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温厚なひとがらであった妙喜和尚 |
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■おっとさんー妙喜和尚■ |
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妙喜和尚の先代は謙翁和尚(じょうおうおしょう)。この人はもちろん江戸時代の生まれの人です。お酒好きのお坊さんで、法事に行っている最中、明治21年に脳卒中で死んでしまったそうです。檀家のみんなで担架をつくってお寺まで運んだそうです。
しかし、妙喜和尚はまだ20代と若く住職には就けませんでした。そこで檀家の人たちが京都の長興寺の本山である東福寺に頼み、10年ほど仮の住職さんを呼ぶことになりました。その人は今の島根県浜田市の安国寺というお寺から特命住職として赴任してきます。
その間、妙喜和尚は東福寺の老師(先生)、敬冲和尚(けいちゅうおしょう)についたりして修行します。禅寺の老師は全国ほうぼうへ布教のために転任していきます。妙喜和尚はその敬冲和尚のお気に入り。一番弟子としていろいろなお寺をまわったそうです。時には老師に変わって説法をしたといいます。
その後、明治33年、妙喜和尚が晴れて長興寺の住職になるわけです。 |
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よくとんちを聞かせてくれた妙喜和尚 |
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■時にはとんちを効かせて■ |
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おじいちゃんはお父さん、つまり妙喜和尚のことを「おっさん」と呼んでいました。「おっさん」とは禅宗の住職の呼び名です。お父さんではなく住職の呼び名で呼んでいたわけです。妙喜和尚はいつも着物。洋服なんかいっぺんもきたことがなかったそうです。平常着(普段着)は茶色やネズミ色の木綿の着物。儀式の時は白衣をきました。頭は丸坊主です。
妙喜和尚は温厚な人で無口な人で、とっても質素な人だったそうです。また禅の修行をしていたので、よくとんちを聞かせてくれたそうです。
ある日妙喜和尚が一人で留守番をしていました。しばらくすると、一日ごとに「刺身が入りました、ヒラメの新しいのが…」といって行商にくる魚屋の魚源さんが来ました。その日、魚源さんが、「たこの活きのいいのが入りました。おっさん今日はいかがですか」とたずねたそうです。そこでおっさんは「たこもいいが、たこはここに一匹おるでいいわ」といってとんちを効かせます。すると魚源さんは「おっさんにはかなわん」といって帰ったそうです。禅宗のお坊さんは丸坊主なのでたこ入道と揶揄されていたからです。直接断るのではなく、とんちを効かせて断りをいれる。村ではとってもいいお坊さんとしてうつっていたそうです。 |
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毎日、着物を着ていた妙喜和尚 |
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■暇があったら碁会所へ■ |
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そんな妙喜和尚の唯一の趣味は碁でした。挙母の町に碁会所が2カ所ありました。一つは「丸ます」という魚屋、もう一つは散髪屋(今の理髪店)といいます。どちらも碁好きな主人が自分の家を会所にしていたそうです。暇さえあればそこによく通っていたそうです。夜中に帰ってくるときもあったといいます。お寺でお葬式や仕事が入ったときなんかは、おじいちゃんが自転車に乗ってよく呼びにいったといいます。その2カ所にいけば必ず見つかったそうです。お寺で3回くらい大会したこともありました。一等賞も設けて、商品は碁盤。司会は妙喜和尚が自分でやったそうです。20人くらい集まりました。
骨董の少々集めていたと言います。特に掛け軸もよく集めていました。その掛け軸は今でもおじいちゃんの家にかけてあります。当時、骨董屋がお寺に出入りしていました。行商です。骨董屋もお得意さんをもっていて「今日はこんなものが入りました」とすすめに来たそうです。昭和の初めくらいまでいたそうです。おじいちゃんの時代にもたまに買ったそうです。でもあまり高価なものは好まず絵が好きだったそうです。
お寺はお世辞にも豊かではなく、妙喜和尚は境内の竹藪の竹を売って生活費に回していました。その仕事は兄弟子たちの仕事でもあります。そのため「お寺の藪和尚」とも呼ばれていたそうです。竹を切り出します。稲を干すための竹にしたり、壁の下地にするこまい竹、お蚕さんの棚を作るための棚竹などに使ったそうです。これは戦時中、おじいちゃんの代にも引き継がれていました。 |
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大正時代に建て替えられた現在の鐘突堂 |
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■コラム:長興寺の鐘■ |
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一日二回の鐘突は兄弟子の仕事です。おてんとさんが上がる前後に、村中の人に一日仕事にがんばりなさいという激励の意味を込め、鐘を突き、夕方ごろに、一日の反省をするという時間を作るために鐘を突く。今、お寺では鐘を突いておらず、「今は横着になってしまった」とおじいちゃんは言います。
長興寺の鐘には昔話が伝わっています。
「長興寺には、小さいながらいい音色を出すので名高い釣鐘がある。ある時、一人の盗賊がこの鐘を盗み出し一里ほど離れた山中まで来ると、急に鐘が重くなり動けなくなった。仕方が無いので一休みした。 すごい音色が出ると聞いていた盗賊は鐘を鳴らしてみた。そうすると、「長興寺恋しや、ボーン 戻しておくれよ、ボーン」 と鳴り出した。盗賊はびっくり仰天して、直ぐに返そうと鐘を持ち上げると軽くなっていた」
という昔話です。写真の鐘突堂は大正時代に建て替えられました。昔話にもなった鐘は、残念なことに大東亜戦争の際に軍隊にとられました。現在は戦後のものがつられていますが、その音色を聴くことができるのは、大晦日の除夜の鐘だけです…。でも大晦日には紅白を見終わった村の人たちが集まってきて、鐘を突きます。鐘突堂の前には大きなどんど焼きができ、おしるこのお接待をうける村の人たちとともにお寺も新年を迎えます。 |
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作詞 :神長睦月
ゴールド眼鏡のハイカラは
都の西の目白台
女子大の女子学生
片手にバイロン、ゲーテの詩
口には唱える自然主義
早稲田の稲穂がサーラサラ
魔風恋風そよそよと
チリリンチリリンとでてくるわ
自転車乗りの時間借り
曲乗り上手と生意気に
両の手離した洒落男
彼処へ行っちゃヒョーロヒョロ
此方きちゃあぶないよ
と云つるまにころがちおっこった |

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露戦争(1904)が始まってから東京で日露戦争の実写
映画が上映されすごい評判を呼んだそうです。
その前年には東京の浅草で最初の映画館が開いたのですが、単純な題材が観客に飽きられていたのですが、実写の戦争映画が皮肉なことに格好の題材となり、その臨場感は観客の好奇心と愛国心を呼び覚ませたと云います。これは他の先進諸国も同様でした。
いずれにしても日露戦争の実写映画を期に、日本の映画は新時代に入っていくのです。 |

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西洋思想、西洋文明を取り入れることに必死であった日本も、明治も後半期になると、「日本的なるもの」への覚醒が高まってきた。
岡倉天心は、日本画確信の先頭に立っていた。積極的に日本文化を欧米に紹介した。
他にも加納治五郎は柔道の近代化を図り、南方熊楠の方丈記の英訳、思想家の井上圓了は東洋思想の体系化を図った。 |
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浪漫主義の時代、つまり、明治20年代から明治30年代前半は、社会的に、西洋に追いつけ追いこせ、近代国家への道を突っ走り、明治27年の日清戦争の勝利、明治38年の日露戦争の勝利、日本全体が夢と希望に満ちあふれ、かなりハイになっていました。バブル主義といいましょうか。
ところが、その日露戦争以降日本の社会はおかしくなってきます。ハイカラソングのように、貧困。差別。いろんな問題が見えてきます。
あんなにすばらしく見えた「愛」や「恋」も、実はドロドロした汚れた性欲に過ぎなかったのだ。世の中の現実は、浪漫主義が描くみたいなキレイゴトじゃすまない。世の中の醜いきたない面をありのままに描くのだ。そう自然主義の人たちは考えたわけです。
バブル後の現在の日本。土地と金に心を捧げてしまったバブル主義から、自然のリズムに身を任す環境主義に早く変わってほしいものです。 |
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