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明治末期とは。
◆ファッション…男:パナマ帽、懐中時計から腕時計へ、毛皮の襟巻、トンビ、シルクハット、角刈り 女:女学生の間で廂髪(ひさしがみ)、
シルクのショール、吾妻コート、レースの衿巻き、長手袋にガラス玉をはめ込むこと、レース編み物、元録模様
◆初登場…タイプライター、自転車、台湾バナナ、クリームパン、ゴム風船、即席カレー粉、ゼンマイ仕掛けの玩具、男爵イモ、東海道線に暖房客車、ニホンオオカミ滅亡 |
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村の人たちにも慕われていた妙喜和尚 |
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■おっとさんー妙喜和尚■ |
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おじいちゃんのお父さん、妙喜和尚(みょうきおしょう)は江戸時代の末期、慶応三年ごろ、今の名古屋市守山区の農家、三浦金右衛門(みうらきんえもん)さんの次男として生まれます。その後、明治13年ごろに長興寺の小僧(弟子)として入寺(にゅうじ)します。農家の次男坊だったからでしょう。それはそうとお父さんのお父さんの名前をちゃんと思えているおじいちゃんには驚きました。
このころ禅寺のお坊さんは妻帯が許されていません。少なくはなりましたが、禅宗のお寺が直系で代々受け継がれていないのはそこに理由があります。この「お寺は個人のものではなく村のもの」と言う禅寺の考えはおじいちゃんにも受け継がれています。 |
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厳しくもしっかり者であった千代さん |
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■おかっさんー千代さん■ |
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妙喜和尚が晋山(しんさん:正式に寺の住職に就くこと)したころ、明治も30年も過ぎ、禅宗も妻帯は許されました。晋山(しんさん)後、しばらくして結婚します。それがおじいちゃんのお母さん、千代(ちよ)さんです。
千代さんは滋賀県の農家の生まれで、嫁入り前は京都にいたそうです。妙喜和尚と結婚して正式に「お庫裏(くり)さん」になりました。「庫裏」とはお寺の台所のことで、敬称して村の人たちは「お庫裏さん」と呼んでいたそうです。「お大黒(だいこく)」と言う人もいたそうです。大黒さんは台所の神様だからです。千代さんは丸髷(日本髪)を結っていました。髪結いは2週間に一度ほど、挙母の町にいっていたそうです。晩年になってパーマネントを当てるようになったそうです。 |
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修行を終えたころの格道さん |
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■二人の兄弟子■ |
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おじいちゃんには、血はつながっていませんでしたが、兄弟とも呼べる兄弟子が2人いました。10年くらい離れている格道(かくどう)さんと、8年くらい離れている至道(しどう)さんです。
そんな兄弟子とは、おじいちゃんの遊び仲間という関係ではなく、お経を教えてもらったりしたそうです。二人とも修行のみですから、井戸から水を運んできたり、お寺の掃除や竹を間引いたり、桑畑で桑を積んで、お寺の家計を助けていた。
その後、格道さんは東海中学へ、至道さんは熱田中学へ通います。両校とも名古屋の学校ですから、やはり、よそのお寺に小僧として入り、学費はお寺から出ますから、お寺の手伝いをしながらご飯をよばれ、学校に通ったそうです。夏休みになると帰ってきたそうです。
お二人とも成人すると、それぞれ住職になったそうです。 |
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兄弟子たちと過ごした当時の本堂 |
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■コラム:お寺の弟子入りとは■ |
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ちなみに格道、至道の「道」というのは、代々長興寺のお坊さんの正式名称につけているのだそうです。妙喜和尚は「慶道妙基(けいどうみょうき)」といい、おじいちゃんは「弘道世雄(こうどうせいゆう)」といいます。
当時のお寺にはこういった内弟子が弟子入りして修行していたそうです。他にも6人くらいでたり、入ったりしていました。農家の次男三男が多く口減らしの意味のあったそうです。学校へは行かせることができず、お寺に入れて、中学校を卒業と同時に止めた弟子もいたり、寝小便でお庫裏さんに怒られてやめた弟子もいたそうです。
また下男(または寺男(じなん)とも呼びます)の人もいましたが、長くいるひとはあまりいませんでした。風呂たき、薪、お寺の掃除を手伝ったりする人で、いわゆる無宿人や風来坊の人たちで、当時のお寺ではそういった人たちを更正する場でもありました。 |
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作詞:添田唖蝉坊
作曲:小山作之助
あゝわからない わからない
今の浮世はわからない
文明開化というけれど
表面ばかりじゃわからない
瓦斯や電気は立派でも
蒸気の力は便利でも
メッキ細工か天ぷらか
見かけ倒しの夏玉子
人は不景気不景気と
泣き言ばかりくり返し
年がら年中火の車
廻しているのがわからない
あゝわからないわからない
賢い人がなんぼでも
ある世の中に馬鹿者が
議員になるのがわからない |

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世をあげて「富国強兵」の道へひた走る明治時代、その道は「亡国への道」だと訴える人々が今した。
田中正造や内村鑑三らは物質文明を謳歌する近代日本の中で対峙し続けました。
「民を殺すは国家を殺すなり。法をないがしろにするは国家をないがしろにするなり。皆自ら国をこぼつなり。財用をみだり民を殺し法を乱して而して亡びざるの国なし、これをいかん」 |

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明治30年代から40年代にかけて、ハイカラという言葉がはやっていました。男性のシャツhigh
collar(ハイカラー)から生まれた流行語です。意味的には西洋かぶれをやゆする言葉であったそうです。
それがハイカラはいつの日か洋風のもの一般を指す言葉になり、『ハイカラソング』『ハイカラ節』などの演歌も生まれたそうです。 |
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