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 「僕のおじいちゃん」では、戦争以外の戦前とは何か、戦前はいつからいつまでなのか。そして七和三洋の和楽の暮らしのヒントはないだろうか。そんなことを主題に取材を進めました。
 それでは明治生まれのふつうのおじいちゃんの歴史、最後まで楽しんでください。


おじいちゃんの原風景をもとめて

 このも語りを始めるにあたり、その導入としておじいちゃんの原風景を探し求めました。その原風景は僕の育った土地の歴史でもあるわけです。小さい頃何気なく過ごしてきた土地の歴史を、大人になってあらためて話を聞くにあたり、こんなにも変わるものなのかと感じました。同時に今の暮らし、社会の激変に一途の悲しみを覚えました。



当時長興寺。円内の絵は寺宝の織田信長像

■村の小さなお寺さん■

 ぼくの祖父(以後おじいちゃん)、三浦世雄(せいゆう)翁は、明治42年(1909)2月1日に、愛知県挙母町長興寺村(現在の愛知県豊田市長興寺)の農家、伊藤鉄床(かなとこ)さん、妻たまさんの次男として生まれました。名は実(みのる)と言います。
 猿投山(さばげやま)を北に望み、矢作川(やはぎがわ)のほとりにある小さな農村の自然環境は、おじいちゃんの原風景なのです。
  おじいちゃんは村の農家に生まれて半年後、村の地名にもなっている、禅寺の東福寺派集雲山長興寺の住職、三浦妙喜(みょうき)和尚、妻千代さんの養子として、入寺(にゅうじ)します。お寺に入寺したこと、そして養子であったことはおじいちゃんの優しく自己に厳しいという性格に大きな影響を与えたと思います。



江戸期に建てられた今も現存する観音堂

■桑畑と田んぼと竹林に囲まれて■

 おじいちゃんが幼少のころの長興寺の風景は、今ではすっかり様変わりしてしまいした。 お寺には今でも山門と西門があります。山門(南門)は今でも当時のままです。お寺の南側、山門の門前には約100メートルほど先に今でも石柱が2本立っています。ただ当時はその石柱まで松並木が東西に6、7本ずつ並んでいたそうです。その門前道の先にはお宮さんの村社の八柱神社があります。この地方(現西三河の北部地方)は加茂郡と呼ばれていました。今でも豊田市の周りの町や村は西加茂郡、東加茂郡といいます。その加茂は下鴨神社の荘園であったことに由来します。したがって村社の八柱神社も下鴨神社の系統です。
 その門前道からお宮さんのあたりはほとんどが背丈ほどの桑畑でした。この地方は蚕業が古くから盛んで、お蚕さんのエサとなる桑畑です。一方お寺の裏(北側)は竹藪でした。東側には矢作川があり、矢作川とお寺の間はやはり竹藪です。お寺の西側にもはやり藪がありその奥にお墓があり、さらにその先には田んぼが広がります。



江戸期に建てられた本堂は今はもうない

■本郷と新田の2つの里■

 お寺がある地域は長興寺の本郷(ほんごう)と呼びます。お寺やお宮さんがあるからです。その本郷から南へ2キロほど行った地域を新田(しんでん)と呼びます。新たに開墾された地域という意味です。その新田には多くの家がありましたが、お寺のある本郷には6、7件の家があったそうです。ちなみに当時、お寺の檀家さんは80軒ほどでした(今は200軒ほどあります)。
 お寺に続く道は2本ありました。参道に続く道と、西側にある道です。その入り口が西門です。特に西側の道は藪に囲まれ、雨や雪が降ると竹がその重さでトンネルのようになります。夜は外灯もありませんから「お寺さんの道はおそがい(こわい)で」とよく言われたそうです。
 東西北を竹藪に囲まれ南に桑畑が広がり、北に猿投山、東に矢作川そして南に野見山を望む、それがおじいちゃんの故郷の原風景です。



現在の長興寺は高度経済の波により立て替え

■桑畑と田んぼと竹林に囲まれて■

 おじいちゃんが住職をしていた東福寺派集雲山長興寺は、建武2年(1335)挙母(ころも)城主中条秀長によって創建され、東福寺開山法系の大陽義冲を講じて開山とした由緒あるお寺です。秀長は、この矢作川畔の景勝の地に菩提寺を建て、自分の長の字をとって「長興寺」と名付けたといいます。やがて、住民の増加につれ、寺へのお供物を受け持つ地域を東西に分けて、「長興寺字供膳(くぜ)寺」という地名が設定された。これが今の地名の起こりといわれています。
 ちなみに江戸時代、長興寺村と呼ばれ、挙母藩(2万石)の領地でした。城下ではなく農村集落で約400石ほどであったと言います。そして明治時代の中頃、周りの村と合併し根川村となり、さらに明治39年、挙母の城下と合併し挙母町になりました。
 江戸時代、挙母藩は何家か城主が変わるのですが、江戸時代中期以降、内藤家によって治められます。その内藤家の幕末期の城主は政成といって彦根藩からの養子で、あの井伊直弼の兄です。そして政成の後を継いだ政優も井伊直弼の兄です。
 また歴史の教科書でもおなじみの寺宝でもある『狩野元秀筆紙本著色織田信長像』は国の重要文化財で、永禄10年(1567)信長によって焼かれた長興寺を、後に信長の家臣余語正勝が再興した際、お寺に寄贈されたものです。
 ちなみにこの国の重要文化財になった経緯もおじいちゃんの歴史に深く関わってきます。


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大正時代に建てられた山門

 もう少し長興寺のことについて。長興寺は南北朝期の建武2年(1335)この地域、高橋荘地頭職であり、衣(金谷)城主の中條備前守秀長が菩提寺として建立されました。
 開山当時は南北に550m東西に440mもの立派な七堂伽藍を完備していました。七堂とは正門である山門、本尊をまつる本堂、お経を講義する講堂、台所である庫裏、食事をとる食堂、身を清めるための浴室、トイレである東司の7つの建物を指します。
 また境内に 10の名勝地があったと伝えらています。


今はなき庫裏

 この地域で最大規模を誇る大寺院でしたが、応仁の乱(1468〜77)の後、お寺のパトロンである中條氏が衰退するにつれて寺勢も衰えました。
  戦国時代に入り永禄10年(1567)織田信長の兵火にあいましたが、信長の家臣余語正勝によって、再興されます。余語正勝は信長の死後、狩野元秀に信長の肖像画を描かせ、現在、国の指定文化財となっています。
  長興寺には他にも国の重要文化財として室町時代中期の絹本著色仏涅槃図や鎌倉時代の絹本著色無為昭元像があり、愛知県や豊田市の指定文化財など多数あります。
 でもこれらはお寺の力ではなく、長興寺の地域の人々の信仰の厚さと心のあたたかさによって、今日まで伝えられてきたのだと思います。地域があってのお寺でした。


大正時代に建てられた鐘突堂

 現在の長興寺は昭和50年代に本堂や庫裏などの建造物の他、境内を巡っていた竹林や樹木、おじいちゃんが幼いころ見た桑畑も、今は野菜畑に変わりました。
 山門からのびる参道の松並木も高度経済成長期を経て少しずつなくなっていき、今は一本も生えていません。
 ともすると悲しいお話ですが、母に昔のお寺の話を聞くと雨漏りがひどかったり、伊勢湾台風に遭ったりと、やはりそこで暮らしていた人々にとっては古き良き感傷だけではないことを痛感します。