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昭和初期:大学生時代その2

昭和2年ー8年(1927-1933)

 昭和時代初期とは。
◆世相語…文化住宅、モダーン、マルクスボーイ、モガ・モボ、大衆、何が彼女をさうさせたか、ラジオ体操、マネキン・ガール、大学は出たけれど、国産品愛用、エロ・グロ・ナンセンス、男子の本懐、オンパレード、ルンペン、いやじゃありませんか、生れてはみたけれど



紫苑寮の仲間たち

■一家一族の仲間■

 東京屋から高円寺の知り合いのところで下宿を移り、大学2年生のころ、仲間4人で三軒茶屋の若林という町で一軒家を借りて暮らします。一軒家を仲間で借りてシェアするというのは当時もまれでした。学生に貸すとぼろぼろにされる言われたからです。おじいちゃんはお話が上手で、大家さんにはおじいちゃんが貸してくれるように頼んだそうです。朝と晩の炊事、そして洗濯は仲間のおっかさんに紹介されたおばさんを給金をみんなで払って、雇い、そのおばさんもいっしょに住むことになりました。5人家族です。
  おじいちゃんたちはその家を「紫苑寮(しおんりょう)」と名付けました。どうせつけるなら花の名前がいい、紫苑っていう花があるなーっという感じで名付けたそうです。関東の風習をならって、引っ越しそばも近所に配ったそうです。紫苑寮は平屋で各部屋をとれる程度の大きさです。個人部屋というものは存在せず、適当に部屋に踏み机を並べて勉強し、夜なべをする仲間がいたら、別の部屋に蒲団を敷いて寝ました。一家一族だと言います。
 このころ薩摩揚げやハンペンは挙母のまちにはなく、東京土産として買って帰省したそうです。またこのころ初めて「ファスナーのついた鞄」を持ったそうです。仲間に見せてくれ見せてくれと言われてそうです。ちなみにズボンのファスナーはボタンだったそうです。また初めてといえば「爪切り」もこのころ持ったそうです。これは便利だとみんなで使ったと言います。それまでははさみで切っていたそうです。



青春時代を謳歌するおじいちゃん(左)

■旧挙母藩主と■

 偶然にもその町に、旧挙母藩の最後の藩主である内藤子爵が住んでいました。こぢんまりとした閑静なお家だったそうです。おじいちゃんはその表札を見て、思い切って挨拶に行きました。同郷のものが訪ねてきてくれて、とても喜んでくれたそうです。おじいちゃんはお殿さんの呼び名で「御前様」と呼んだら、そんなふうによばなくていいっていわれたそうです。お殿様は当時、上野の帝室博物館につとめていました。その後、2、3回訪ねたそうです。
 紫苑寮での暮らしは2年半くらいです。まかないのおばさんが「そろそろまあおいとももらいたい」ということになり、卒業論文のための勉強も迫られ、それをきに紫苑寮は解散しました。



卒業の日の記念撮影(東京にて)

■実から世雄へ改名■

 大学卒業の寸前に実という名前を改名します。名は「世雄(せいゆう)」。自分で考えました。世雄という意味は、仏教的な世界観、宇宙の意味のをする「三千大千(さんぜんだいせん)世界」の「せ」という音を用い、「雄」は多くの人に禅宗を広めたいという覚悟であると言います。世の中の名前を現して大いになってみたい。この宇宙の英雄になりたいという意味もあります。お釈迦様を三千の英雄と言う言い方もあります。「世」の音は「静か」「清らか」と同じ「せい」であることも踏んでいるそうです。この前後に織田信長の肖像画の件でお世話になった、渡辺先生の世祐(せいゆう)という音が非常に気に入っていたこともあったそうです。
 中学校では校則が厳しかったので、大学では自由を感じたといいます。一方で、当時は徴兵制があります。20才になるとすべての男子は兵隊として2年間つとめなければなりません。大学や専門学校に入るとそれが延長されます。とはいうものの、このことは青春の多感な時代を兵隊として過ごさなくてはならないという、当時の若者にとって切実な問題でした。大学に進んだおじいちゃんには、召集令状「赤紙」はまだ届いていません。 



紙本著色織田信長像

■信長の肖像画、国宝に■

 おじいちゃんは学生時代も終わりのころ、お寺にとっての大きな仕事をします。
  そのころ、東大の渡辺世祐という先生が、日本各地の文化財を調査し、国宝の指定などによる文化財保護の活動をしていました。渡辺先生は長興寺にもよります。そこで妙喜和尚はお寺の寺宝である織田信長の肖像画を鑑定してもらいます。先生はこれは国宝にかもしれないといい、すぐに申請するように進めます。
 そこで、おじいちゃんは東京にいましたので、挙母地域の代議士である小林かなえさんに相談したり、渡辺先生のもとに出かけたりします。そして当時の文部省に小林代議士といっしょに申請し、晴れて織田信長の肖像画は国宝(現国重要文化財)になったわけです。この動きは右のコラムで紹介している「民芸運動」とも関連してくる動きだと思います。
 長興寺は永禄10年(1567)信長によって長興寺は焼かれます。その後に家臣の余語正勝の手によって再興され、それと同時に信長の画像も寄贈されました。正式には天承11年(1583)狩野元秀筆による紙本著色織田信長像です。信長の肖像画は掛け軸ですから信長の絵自体はとても小さいです。現在、本物は公開していませんが、複製画は豊田市郷土資料館で見られると思います。0565-32-6561、豊田市郷土資料館まで要問い合わせ!


[ 昭和前期:社会人時代にすすむ ]

 

 市場経済が都市を中心に発展していきます。と同時に新聞、雑誌といったメディア媒体の急増により、商業デザインへの要求が高まります。大正末期には『広告界』という雑誌も刊行されました。
 昭和3年の普通選挙に際し、ポスターデザインも公募されたそうです。色合いといい、フォントといい手書きならではの暖かさが感じられます。
 また出版界では、印刷、流通面の革新とともに、数冊分の単行本一冊にまとめた全集が刊行されます。これは円本全集と呼ばれ、いろいろな全集が出版されます。円本の購入方法はいわば通販のようなもので、先にお金を発行元か書店に振り込みます。最近も多くなってきましたよ。
 小説と挿し絵の関係は、日本には古くから挿し絵の伝統があり、この伝統が戦後のマンガへ引き継がれて行くんじゃないでしょうか。


 大正デモクラシーを通じて知識人の間に暮らしに根ざす、伝統的な物へのこだわり「民衆」に価値を見いだそうという風潮が急速に広がっていきます。
 柳田国男は明治末期から民族学に取り組みました。『遠野物語』では「願わくばこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」といい、明治以降の近代化を謳歌する都市住民・知識人を批判しています。また大正2年『郷土研究』で一般民衆(常民)の生活の中にこそ歴史の本質はあるのだ、それには民衆の生活・思想を掘り起こし、民間伝承・風俗・習慣を研究の対象とする「民族学」を発展させる必要があると主張します。
 柳宗悦は昭和2年『雑記の美』で次のように記します。
 「それは貧しい『下手』といやしまれる品物に過ぎない。おごる風情もなく、華やかな化粧もない。作る者も何を作るか、どうして出来るか、詳しく知らないのだ。(中略)彼が美を工夫せずとも、自然が美を守ってくれる。彼は何もかも打ち忘れているのだ。無心な帰依から信仰が出てくるように、自らの器に美がわいてくるのだ」
 しかし、軍部の台頭とともに、民族主義を打ちに抱える「民族学」は急速に広がる反保守思想を前に、「民族学」が本来持っていた反帝国主義、反権力思想に対し有効に発現されることはありませんでした。

  夏休みに誰もが経験したことのあるラジオ体操は昭和天皇の大礼記念事業から始まります。
 ヒントは以外にもニューヨークにあった民間会社が行っていた社内の体操と、チェコで行われていた損国民が一斉に行うソコール体操がそのヒントになったといいます。正式には『国民保険体操』と言います。
 ラジオ体操は瞬く間に全国に広がります。しかし規模が拡大すると同時に、ラジオ体操は次第に、大衆を動員することを目的とした、国民精神運動に結びつけられていったそうです。内務省や在郷軍人会などが国家総動員路線にラジオ体操を利用したそうです。
 元々ラジオ体操は逓信省簡易保険局(元郵政省)とNHKが進めたのですが…。軍はいやですね。