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昭和初期:大学生時代その1 |
昭和2年ー8年(1927-1933) |
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昭和時代初期とは。
◆ファッション…男:モボ(オールバック)、ラッパズボン、開襟シャツ 女:モガ(断髪)、膝上スカート、パーマ、兎の襟巻き、マニキュア、ロングスカート
◆初登場…明治ミルクチョコレート・ココア、マネキン・ガール、ファッションショー、グリコのオマケ、レコード会社、箱入りシュウマイ、カメラ、バスクリン、既成靴(それまではオーダーメイド)、国産自動車、人絹素材、
エナメルレザーのハンドバッグ、シャンプー、トマトジュース、ブラジルコーヒーの輸入急増、脱毛剤 |
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入学の記念撮影 |
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■大学入学、いざ東京へ■ |
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おじいちゃんは昭和の初めより大学での勉学のため、10年近く東京で暮らすことになりました。この時期が昭和モダン、都市文化の反映した時代と学生生活という人生でもっとも楽しい時期と合い重なったわけです。僕からするととてもうらやましい限りです。
おじいちゃんは昭和の初め、中学校を卒業して、禅宗のお坊さんになるために、東京の駒沢大学仏教学部に入学するために上京します。当時、挙母の町にあった「東京屋」という洋服屋さんが東京の神田にも支店をもっていて、そこへ下宿することになりました。上京の日、刈谷を夜の10時頃に出発する夜汽車に、東京屋の主人といっしょに乗り、羽織袴に柳行李が一つを持ち、おじいちゃんはいつしか青年になっていました。
柳行李を刈谷駅に預け、「ちっき」とよばれる荷物の半券と切符をもって汽車に乗り込みます。車内は比較的すいていて、木の背もたれのイスに座り込みました。夜汽車は肘掛けがはずれるのでそれを枕にして横になったそうです。 |
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当時の駒沢大学校舎 |
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■上京はしたけれど■ |
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夜汽車に揺られ10時間あまり、朝8時頃、3階建ての赤煉瓦、東京駅に着きます。大都会に着いたと思ったその東京は、数年前の関東大震災でバラック小屋が建ち並び、焼け野原の荒れ果
てた町でした。当時の東京は舗装のままならず、どろんこで高下駄 は必需品だったそうです。まだトラックもありませんから、もっぱら馬車が工事現場に向かっていたそうです。もっともちんちん電車は走っており市民の足だったそうです。
東京駅から山手線に乗り換え、神田柳町の「東京屋」東京支店にたどり着きます。神田の古本屋街は当時からあったそうですが、もちろんバラックが広がり、神田の名所「ニコライ堂」も屋根が落ちたままだったそうです。神田駅前には、震災で残った広瀬中佐の銅像がありました。その後、おじいちゃんの学生時代は帝都復興の時代でもありました。 |
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箱根にて友人と |
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■学生はいつも時代も…■ |
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おじいちゃんはその「東京屋」から省線に乗って、渋谷駅まで出て、玉川線のちんちん電車に乗り、駒沢大学まで2時間ほどの通学です。
大学では、着物に袴姿で仏教の勉強をします。学生服はあまり着なかったそうです。ほとんで着物に袴姿だったそうです。今の学生のように当時の学生も代返もあったり、授業のノート貸ししてくれという学生もいたそうです。たまにばれてしまうこともあったそうです。麻雀をしたり、テニス、野球、劇、乗馬している学生もいたそうです。
大学が休みになる年に数回、箱根や山梨の方へ省線に乗って出かけたそうです。酒の席では、余興や隠し芸として日本舞踊や剣舞、「草津よいとこ、一度はおいで」など歌を歌ったりしたそうです。無芸だったおじいちゃんは友達に「なんかやれ」っていわれ困ったそうです。おじいちゃんは、生涯、無芸だったでの無粋な人間になってしまった。芸の一つでもできればもうちょっと柔らかい人間になれたと振り返ります。 |
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当時の武蔵野劇場。モダンな建物 |
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■映画が娯楽の王様■ |
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たまには銀座のデパートにも出かけたそうです。デパート定員は女の定員はみんな袴をはいていて、男は呉服屋の番頭さんのように洋服ではなく着物を着ていたそうです。でも、挙母の町に比べて洋服姿の人は多かったそうです。
おじいちゃんは映画は好きでした。中学生の後半のころから、たまに名古屋で映画を見に出かけたそうです。チャップリンも見たそうです。学生時代も映画は有名な「嘆きの天使」や邦画、洋画とも、よく見に行ったと言います。学そのころの映画は無声映画で弁士がいました。徳川無声は新宿の武蔵野劇場の弁士だったといいます。
栗島澄子や月形りゅうのすけが当時のアイドルで、おじいちゃんは集めていなかったそうですが、プロマイドはよく売れていました。大学も後半時期になるとトーキーが出てきたそうです。はじめは音声の状態が悪くよくわからなかったと言います。 |
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大正期が生んだ平和主義と民主化の流れを発展させようと大きな期待の中、若い天皇とともに「昭和」の巻くが開きました。
都市を中心に一般の生活と文化は大きく変わりました。公営の鉄筋アパート、タクシー・バス・私鉄の発達に伴う交通
状況の変化。
次々に刊行される文庫本や雑誌の出現。映画・レビューは大衆娯楽としての黄金時代を迎えます。
一方、金融恐慌や小作争議・労働争議があとを絶たず、思想問題や社会主義、共産主義への取りしまりも強化されていきます。
また諸外国との関係は対外強硬政策が次々と打ち出されます。
個人の暮らしは一見豊かさを持ちつつあるのですが、社会の世相、国際関係の視点では、右傾化していきます。まさに現代の日本の姿をかいま見るようです。 |

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関東大震災後、特に東京は急速な都市の発展にモダニズムの風潮が加 わり、新しい生活様式が求められるようになりました。
大正期の文化生活には西欧文化への憧れがありました。それが昭和初期にはアメリカ文化への憧れへと代わり、それはモダンライフと呼ばれました。
街頭はにぎやかになり、モガ(モダンガール)、モボ(モダンボーイ)がファッションリーダーに。建物の洋風化は住宅に広がり、服装は洋服が日常着化し、女性の髪型も日本髪から洋髪が一般
化していきます。 |

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モダンガールの第一の特徴は『断髪』です。後ろ髪を刈り上げ、前髪を下ろしたおかっぱ頭です。これにフェルト帽子を深めにかぶり、膝丈のショートスカート、絹の靴下にハイヒールという洋装。化粧は白粉を厚めにして、細い眉毛、赤い口紅。
また日用英語辞典、ラブレター、ブラジャーチョコレート、偽名刺を持っていたそうです。
茶髪や小ギャルのようなものでしょうか。 |

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大正末期から昭和初期、関東大震災で壊滅した街区にアメリカを模したダンスホール、カフェー、映画館、レビュー館といった娯楽施設が次々と建設され、若い男女の出会いの場としてにぎわいます。
その新しい街からモダンガール・モダンボーイと呼ばれた洋服スタイルの男女が生まれました。彼らモガ・モボたちは、流行の最先端を行くファッションで東京の銀座や大阪の心斎橋に繰り出したと言います。
しかし、人目を引く彼らのスタイルは、一方で反道徳的なものとして不良青年の同義語にもなったそうです。
新風俗に対する反応は、これまでの生活スタイルを破壊したことへの賞賛や批判。賛否両論で、大きなものでした。
明治、大正時代の女性社会運動家と比較する人もありました。「今まで(の女性社会運動)のように一幕物として過ぎ去らないであらう理由は、それが曲がりなりにも生活と、経済の上に即しておることである」と、真のモガを期待する人もいました。
事実、モガの登場の背景には女性の職場進出による経済的な自立があったことも大きな要因だったそうです。 |
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