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大正後期:中学生時代

大正11年ー15年(1922-1926)

 大正時代後期とは。
◆ファッション…<大震災の影響で和装から洋装へ・ 夏は洋服、冬は着物定着> 男・こども:英国風モダンボーイ、毛糸で編んだ正チャン帽、子供洋服増える 女:断髪、耳隠しの髪形、トンボ玉の髪飾り、かすりの夏着、和服に靴下流行、毛糸の刺繍、アッパッパ、洋裁の家庭普及、セーター、セーラー服、ビーズ玉の手提げカバン、日傘流行
◆初登場…グリコ、カツ丼、蚊取り線香、カレー粉、タイガー魔法瓶、電熱アイロン、ホットケーキ、お好み焼き、日清サラダ油、国産時計、マヨネーズ、ココア



中学入学と同時に初めて洋服を着た

■中学入学で初めて洋服を■

 おじいちゃんは高等尋常小学校に1年通った後、大正11年、愛知県立第八中学校(現愛知県立刈谷高等学校)に入学します。旧制中学校への入学は高等尋常小学校から2、3人だったそうです。これまで長興寺の小さな世界史か知らなかったおじいちゃんが町外への越境入学。初めての汽車通学。はじめてづくしの青春時代が始まります。
 おじいちゃんは中学入学を期に初めて洋服というものを着ました。爪入りの学生服。夏は霜降りシャツ。寺の下男の人に「坊ちゃんようにあいます」って言われたそうです。学生帽は夏は白でした。帽子は小学生の頃にもかぶっていたと言います。でも髪は小学生の時と同様に丸坊主でした。鞄は肩からかけるものです。一方、女学生は着物と袴。髪はお下げの三つ編みだったそうです。
 教科は修身、国語、数学、理科、地理、歴史、体操、英語そして柔道または剣道。部活はなかったそうです。
  おじいちゃんは毎日、上挙母(うわごろも)の駅まで自転車で通い、刈谷まで三河線に乗って1時間程度の汽車通学をしました。中学校から男女別々の学校になります。ここでエピソード。二両編成の電車では前の車両に男子学生、後ろの車両に女学生が乗っていたそうです。もちろん会話なんかできません。女学校が同じ刈谷にあったのですが、お話しすることもできなかったそうです。もしおしゃべりなんかしたら退学処分になったそうです。今のように恋愛は御法度でした。



富士登山の記念写真

■一番の思い出、富士登山■

 おじいちゃんの中学生時代の一番の思いでは中学2年の時の富士登山です。これは有志であったそうです。2年生のおじいちゃんに学校の先生は「おまえじゃ無理だ」とおっしゃったそうですが、このころから積極的になりはじめたおじいちゃんは、無理をして頼んで行ったそうです。
 省線(現JR)に乗って静岡まで行き、浅間神社の近くの民宿に泊まり、朝方、浅間神社にお参りをしてから登山を始めます。これが当時の富士登山のスタイルだそうです。お遍路さんのような格好に、金剛杖をつき「六根清浄(ろっこんしょうじょう)お山は晴天」と言いながら登ります。人間の体には6カ所の汚れやすいところがあり、その六根を清潔にし、体を清めて富士山に登るといういうことです。
  八合目付近の小屋に他の学生とごろ寝でとまり、早朝、頂上を目指して登りはじめます。帰りはなんと御殿場駅まで歩いて帰ったそうで、それがめちゃくちゃえらかったと言います。途中に飲食した氷水(かき氷)やラムネがおいしかったそうです。氷に砂糖水をかけた氷水は「雪」と呼んでいたそうです。ラムネは小さい頃からあったそうです。
 この富士登山の時、写真機を購入します。それまで集めていた貯金をもって、名古屋の広小路まで行って額田銀行(現UFJ銀行)でお金をおろし『BEST』という舶来の写真機買ったそうです。これをきっかけに写真に熱中していったそうです。なんと自分で現像したと言います。



当時のストーブの記事

■少しずつ文化的生活へ■

 大正12年ごろ、お寺にミシンが入ります。千代さんの裁縫のためです。またこのころラジオが家庭に入ってきます。
 中学2年の時「ラジオというものがくるから学校の講堂に集まれ」といわれ、そこでラジオの実験を見たそうです。ラジオを通して聞こえてくる音声はなんと詩吟です。「えらいものがきでる」「みんな買うのかな」などと話したそうです。はじめラジオはキットで売り始められました。物理や化学の好きな学生は自分でラジオを作りました。その後、ナショナルなどが家庭用のラジオを販売したそうで、お寺にもしばらくしてラジオが入りました。これで電化製品は照明、ミシン、ラジオと3種類になることになります。その後ラジオは現在のテレビのように娯楽の中心になっていきます。



開業当時と同じ駅舎が今も残る上挙母駅

■鉄道が着たぞ!! 車内にはなんと…■

 この地域の念願であった鉄道が大正9年(1920)にようやくやってきます。明治8年(1872)に国内初の鉄道がしかれてから48年の歳月です。この年8月31日に上挙母駅が、11月1日に挙母駅(現豊田市駅)がそれぞれ開通します。これが三河鉄道(現名鉄三河線)です。その2年後におじいちゃんはこの鉄道に乗って第八中学校に通うわけです。この鉄道がなかったら中学にも通うことができず、その後のおじいちゃんの人生もずいぶん変わっていたかもしれないのです。
  長興寺からの最寄り駅は上挙母(うわごろも)駅です。この駅舎は開業当時から現在もそのまま使われている数少ない駅舎です。つまりこの駅舎には、おじいちゃん、両親、僕の3代にわたってお世話になっているわけです。
 開業当時は汽車で、大正15年に電化されるので、おじいちゃんはほとんど汽車で通っていたことになります。おじいちゃんが通学で利用したころの汽車はよく止まり、そのため学校へも遅刻をしたそうです。車内は電気がとっていないので、ちょうちんが吊ってあったと言います。挙母の町から上挙母駅までは「御殿坂」という勾配のある坂があり、汽車が止まったときは乗客が車内から降りて、みんなで汽車を押したそうです。


[ 昭和初期:学生時代にすすむ ]

 

 大正12年(1923)3月1日、関東地方南部を襲った大地震により、死者・行方不明142,800名(阪神大震災は約6,500名)、全壊建物12万8千棟、全焼建物44万7千棟という未曾有の大災害がもたらされました。被害総額は当時の国家予算の1年4カ月分に達するといわれています。


 新橋ー横浜間の鉄道開通から48年。ようやくこの地方にも鉄道が敷かれます。当時は汽車でその6年後は電化。まちにまった鉄道開通は町をあげてお祭り騒ぎをしてお祝いをしたそうです。開通の当日はなんと無料だったそうです。
 どの地方も同じだと思いますが、当時の鉄道建設は地元の実業家が仲間に呼びかけ、自分たちの手で会社を興し、建設し、経営しています。
 現在のように、陳情しかせず中央からプレゼントされる高速道路の建設とは大違いです。


裏の竹林もだいぶ少なくなった

▼現在の長興寺その2▼
 お寺はすっかりかわってしましました。僕が子供の(1970年代)頃にはかすかに残っていた桑の木も今は畑に変わっています。基地をつくって遊んだ雑木林や竹林は、交便の利便や災害防止の大義名分による「公共事業」のために削り取られています。
 でもおじいちゃんたちの世代は何もいわずに生きています。


 大正時代にも入ると、挙母の町にも外国人を見かけることがあったそうです。多くは宣教師です。はじめて外国人を見たときは、「あー外人か」と思ったそうです。車に乗っていることがあり、宣教師は貧民救済もしており「あー外国はお金のある裕福な国なんだなー、日本はかなわんなー」と感じたそうです。もちろん海外旅行など、思いもよらなかったといいます。外国へ行くのは夢の夢。とうていできんことと思っていました。
 また東北や九州に比べれば少々ゆとりのあったこの地域は、ブラジルやハワイなどへの集団移民もいませんでした。ただ、このころ、千代さんのお針子さんが一人がブラジルへ嫁入りしたそうです。そのときは餞別をあげる程度で、村をあげてお祝いをするなどと言うことはなかったそうです。別に差別意識もなく、気の毒だなあと思ったそうです。