和楽な着物暮らし

昭和初期に大ブーム銘仙着物

 「もとから日本人」の若かかりし日々、大正・昭和の初期に、日常的に着られていた絹織物(正絹【しょうけん】・人絹【じんけん】もふくむ)が銘仙【めいせん】です。玉糸【たまいと】とよばれる太くて粗い糸を使っているため丈夫だったことが人気のひとつにあります。さらにその柄が多様だったことも大きな理由のひとつです。
 昭和の前期の銘仙のデザインはモダン。海外のテキスタイルが取り入れられ、中にはインテリア用のものもあったため、モダンガールたちは敷物やカーテンが歩いているようだって言われたそうです。



■いろいろな銘仙の柄は…

 銘仙の着物は大正から昭和初期の中産階級の女性の普段着、オシャレ着、あるいはカフェの女給の仕事着などでした。銘仙は明治期に始まる「縞銘仙」、大正期に流行する「絣銘仙」、昭和初期から昭和10年頃までに大流行した「模様銘仙」の3パターンがありました。
 また、初期のものほど糸の節が目立ち「ぶつぶつした」感じがし、次第に糸の節(つなぎ目)が目立たないものが多くなり、昭和に入り滑らかで光沢のあるものがほとんどになるようです。
  銘仙のデザインは、百貨店うあ商社のデザイン担当者が提案することもありましたが、華の東京の美大生がアルバイトでデザインすることもあったそうです。中には今の着物にはない派手な色や不思議な柄をみることもできます。



■銀座を歩いている51%の人が…

 大正から昭和初期(昭和15年頃まで)、オシャレな着物の定番といわれたのが「銘仙の着物」です。「考現学」を提唱した今和次郎(こんわじろう)さんが「東京銀座街風俗記録」というとっても有り難い調査を大正15年にしています。外出着として男性の洋装率が67%だったのに対し、女性は1%。つまり女性の銀ブラをしている人の99%が着物だったんですね。この結果に対し「われわれの目につきやすいものは多数感ぜられるのだ……」と。今さんももっと洋装率が高いと思っていたのでしょう。流行の中心地「銀座」ですよ。
  そしてこのとき銀ブラをしていた51%の女性が身につけていたのが銘仙の着物や羽織だったんです。



◆いろいろな銘仙の柄

縞・絣柄

 

縞柄


絣柄

 

絣柄


洋風の花柄

 

植物?柄


ディフォルメされた植物柄

 

綿の銘仙


洋風柄

 

洋風柄


モダン柄

 

モダン柄



正絹【しょうけん】 まじりもののない絹糸、また絹織物。本絹(ほんけん)。純絹。いわゆる天然の絹です。絹はお蚕(かいこ)さんの繭からとるので、天然の動物性です。

▲人絹【じんけん】 パルプを原料としたレーヨンやアセテートなどの繊維。人造絹糸ともいいます。パルプは植物を機械的・化学的に処理してほぐし、厚紙状にしたものなので、植物性です。作り方により化学パルプと機械パルプにわけると事ができます。当時の人絹が機械パルプか化学パルプ(化繊)かどちらを使っていたかはわからないので、知っている方教えて下さい。

▲玉いと【たまいと】 ひとつの繭の中に2つの蚕のさなぎが入った玉繭からとって節のある絹糸。

▲銘仙【めいせん】
 絹織物のひとつ。経糸(たていと)に絹糸、緯糸(よこいと)に玉糸・くず糸を使った縞柄の織物。まず生地を仮織りします。その生地に模様を描きます。そしてその生地をいったんほどき、ちゃんと織り直して生地をつくります。先染めの織物です。



■銘仙ブームとは

 このような生産量と販売量を支えたのは、生産の工業化です。もともと農閑期に手織で生産されていたものが、工場で大量に、効率的な生産を工業化によって可能にしました。流行の中心地、東京に銘仙の生産地、北関東が近い。
 そんな好条件はありましたが、ただ、生産しても多くの人の支持を受けなければ商売はなりたちませんね。魅力的な値段、多種多様な品揃え、新しいデザイン、広告宣伝とイメージ。そんな理由が相まって銘仙の流行を形作られていったそうです。
 広告宣伝といえば、ショーウインドウのマネキン、宣伝ポスター(今のビールのポスターのような)や短編映画、レコードといった新しい情報の媒体を上手に使っているのも注目されます。現在のファッションの形成の原点を銘仙は持っているような記がしますね。
 そんな銘仙は昭和30年代まで造られていましたが、今では造られていません。つまり造ることのできる人がいなくなってしまったのです。
 和楽としては大量生産、大量消費、大量所有は否定です。大切なことは暮らしの中の必需品であること。そうであれば、銘仙はいまだに生きていたはずです。


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