コラム・時事和論

着物で国際交流

(2006.10.27) no.096


呉服店二代目、越智さんのエッセイをご紹介します。

越智さんは、「和で女力アップ&着物で国際交流」活動を展開する、「はんなり倶楽部」を主催しておられ、そこで様々なイベントを開催されています。今回のエッセイも、そのイベントの中で外国人の方向けに英語でお話されるそうです。 日本の衣・着物文化、日本人の感情を理解する上でとても共感できる、よいメッセージです。ぜひご紹介したいと思います。

日本文化を伝える意味で、着物で国際交流、非常に意義深いですね。活動・イベントについて興味のある方は、「Girls' Talk 海外行ったら着物です!」のサイトを是非チェックしてみてください。


〜ご挨拶〜

「着物」というと、権力者のためにつくられた豪華で高いイメージがあるかもしれません。

しかし、「着物」は読んで字のごとく、誰もが着ていた日本人の衣だったのです。

西洋化される前、日本人誰もが皆、着物を着ていました。

だから今回、着物歴史、素材、地域性、構造について分けながらも、上流階級のための豪華な着物についてだけではなく、一般庶民・農民の着物についても説明ができるよう、限られた資料の中で、努力をしました。

衣はただ寒さをしのぎ、日差しから体を守るためのものではなく、社会的地位や自己主張を表現する役割をもちます。

ですから、あらゆる方向から「着物」という日本の衣の文化形成を知れば、日本の歴史や日本人の価値観が見えてくるのではないでしょうか?

この展示で、日本をもっと知っていただけたら、あなたの日本滞在がもっと良いものになるのでは?

そう願いをこめています。

〜終わりに〜

開国後、瞬く間に近代化した日本。

着物はその犠牲者であったのかもしれません。

日本の独立を守るため、列強諸国のように産業化・近代化し、軍事を強化するために、着物を脱ぎ捨てることは、やもえないことだったのでしょう。

そういった社会には、残念ながら着物は不向きでした。

それでも日本人は家では着物に着替えていましたが、更なる戦争が大きな打撃となります。

軍の制服はもちろん洋服、豪華な着物の制作の禁止、さらに敗戦後、我々の目に映る西洋の社会は、豊かさの象徴でした。

そしてそれは、洋装へのさらなる拍車をかけたのではないでしょうか。

しかし近代化、民主化には、我々の着物ライフにとってプラスとなることもありました。

それは、身分に関わらずどんな着物も着ることが許されるのです。

一定の階級にしかゆるされなかった絹。

豪華な刺繍や金箔のあしらい。

そういった着物が、産業化された今、以前よりも簡単に作られ、値段も安くなりました。

そして面白いことに、逆に僻地の農民が着ていた着物がとても人気になり、高値になっています。

それは機械ではなく、人の手でしか作り上げられないからです。

いずれにせよ、あなたの気持ちさえ整えば、どんな着物のドアも開かれているのです。

(二代目)


「 Girls' Talk 海外行ったら着物です!」 http://girls.alc.co.jp/ochi/

「10月、下鴨でカフェイベント」

(2006.9.27) no.095


平成18年10月7日(土)、8日(日)、9日(祝) 和楽亭でカフェイベントやります!
和楽社中主催のカフェイベント、春に続いて2回目の開催になる「キモノ日和」。
今回は和の本を集めたブックカフェ。もちろんアンティークのキモノもたくさ〜ん出品します。
場所 はおなじみ、和楽社中本部のある町家、和楽亭。キモノでゆったり、お気に入りの本をみつけて、のんびりお茶しませんか?和コモノ、アクセサリーも出てますよ〜!

「キモノ日和」の模様はこちらのブログで掲載中です。(10/8)

紀子さま、男児をご出産

(2006.9.6) no.094


6日の朝、秋篠宮妃紀子さまが男のお子さまを出産されたニュースを聞きました。皇室典範改正案の国会提出を準備していた中での、約41年ぶりの男児のご誕生だけに、このニュースは非常にうれしい。

皇室に対して特別な感情とか、思い入れがあるわけではないし、皇室典範についても正直言って、ごく最近まで知らなかった。しかし一人の日本人の誕生にこれほどまで日本中が歓喜し、注目する事も他にないだろう。これをナショナリズムとかいう言葉で片付けるのはなんだかオカシイ。ムズカシイ問題はさておいて、正直今日のこのニュースを知ったときにはうれしくなったし、元気が出た。素直にうれしいし、安心したという気持ちは、日本人の誰にも共通するところだろう。この喜びは自然なもので、イデオロギーでコントロールされたようなものでは決してない。

単純にニュースと言う観点からでも、昨今の悲惨な、よくない報道ばかりが目につく日々の中で、よいニュース、明るいニュースで、マスメディア的に注目されるニュースという、数少ないひとつだ。世の中よいこともたくさん起きているが、注目されるニュースといえばスキャンダラスなものばかり。視聴率を取るための不祥事・不正事件・殺人事件など、「世の中不安なことばっかりかいっ!」と思ってしまうじゃなか。スポーツや勲章以外にも、こうやって国民全員が喜べるニュースがあることはいいことだ。

皇室典範改正案も、これで切羽詰った議論から開放され、場当たり的な解決策じゃなく、もっと深く議論していけると思う。二六〇〇年も続いてるんですから皇室は。ウチらの世代で議論もそこそこにいきなり結論出せませんよ。二六〇〇年の間には今よりもっと深刻な状況だってあったはず。それが何でこんな風になっちゃったんでしょうか。これは教育というより、道徳の低下だな。

いや、ともあれ男の子のご誕生、おめでとうございます!!万歳!!!(じゃん)

日本の音楽・うた

(2006.7.17) no.093


※.画像はイメージです。コラムとの関連はありません。提供:BATI-HOLIC

近頃、トンとポップスを聞くことがなくなり、最近の歌はおろかアーティストすら分からなくなってしまった。歌は好きなのに、友人とカラオケに行くのは非常に辛い。

 年?と思う一方、単に年齢だけではない部分で「最近の音楽」を受け入れにくい私がいる。これは、小唄・童謡・唱歌・そして昭和歌謡というように「日本らしさ」を持った音楽にずっと触れて生きてきて、それらとのギャップがあまりに大きいからだろうと思う。

 日本の音楽、歌。。
 私にわかる範囲だが、近年でも残っているものとして神社などで今でも使われる雅楽、能に使われる謡曲、長唄、小唄、地唄、民謡、その他古典があり、童謡・唱歌、歌謡曲(昭和歌謡)、フォーク、など、いわゆる「J−POP」と呼ばれる以前の近代音楽。古典は言うまでもないが、近代にいたるまで、上記の音楽・歌にはすべて、「日本らしさ」が多分に含まれていた。少なくとも雅楽・謡曲を除いて、これらの音楽は日本人の民衆に根付き、引き継がれてきたものであり、これからも民衆、つまり私たちが聞いて、引き継いで行くべきもののはずなのだけど、どうも日本人はそうではなく、「過去のもの」にしたがっているように見えてならない。

 古典でいうと、日本で音大にでもいけば大半が西洋の古典を学び、すぐにドイツだのイタリアだのに行きたがるが、日本の古典は・・・「すごいね」と祭り上げるだけで、自分たちが触れるものだとは思ってもいない。モーツァルトは学ぶのに、越天楽【えてんらく】は不要なのだ。

そして、大衆音楽でいえば、若い人を中心に日本を席巻しているのが、J−POP。全部が全部とは言えないが、商品としての存在感ばかり強く感じられ、心の深い部分に刺さらない。一時は「いい歌だ」と思っても、それは10年も残らない。商品であり生ものだから、その必要がないのである。退廃的なもの、一時的な癒し、なぐさめて助けない、外国の物まね、そして日本語の崩壊。昭和歌謡にせよ童謡にせよ、それまでの音楽にも西洋の音楽を取り入れる傾向は多分にあったが、その中でも「日本らしさ」がそこここに感じられた。人を大事にする心、自然を尊敬する心、みんなで頑張ろうよという心がある。だから、リンゴの歌は、ふるさとは、この道は、100年たっても消えることはないし、忘れてはならないのだ。

私は、およそ月に一度のペースで、老人福祉施設や障害者施設にお邪魔し、なつかしい歌を歌い、施設利用者のみなさんと交流させていただくという、素敵なひと時を過ごす幸運に恵まれている。この活動を通じて、様々な日本の音楽、歌を学ぶ機会を得てきた。そしてそれはこれからも続いていく。多くの友人にこれを伝えていくことで、日本やその音楽のよさを知り、また広めたいと思う人が増えるといいなと心から思う。それは日本の殻に閉じこもるためではなく、日本を知って世界を知り、打って出ることにもつながっていく。ドイツの人にヴェートーベンを語るより、童謡を語ろう。アメリカの人にジャズやヒップホップを聞かせるぐらいなら、ソーラン節を歌って踊った方がきっと尊敬される。これを読んで下さった方々にも、「ちょっと気分転換で」でも充分!!そうやって興味をもって頂けると、幸せなことこのうえない。(サンペー)

越天楽【えてんらく】Yahoo!辞書

町家のいいところ

(2006.7.9) no.092


昨今の町家ブームについて、町屋大工の山本茂さんという方の書かれた「京町家づくり千年の知恵」という本に、おもしろい話が載っていた。

「今は思いもよらぬ町屋ブームで、忙しいのは結構なこと」と現状を歓迎しつつ、「いま、たまたま一種のブームでこうなっているだけで、いずれまたその不便さに耐え切れんようになり、近代的な工法で作られた建築が主流になっていく」と耳元で悪魔の声がささやき不安になる、と山本さんは熱しやすく覚めやすい今の世の中と、今後の家作りを危惧して言っている。

「物見遊山で見に来て、ああ懐かしいわあ、情緒あるなあ、これが日本の原点やいうて感心していたその人が、自宅に帰ったら近代的なオートロックのマンションに住んで、自動給湯器やら、自動皿洗い機の付いたシステムキッチンで料理して、ジャグジー付きのバスに浸かって、ああやっぱり自分の家の風呂はええなあ、というような感覚では、町屋に住んでいる者からしたら浮かばれません。」

まさにそのとおり、もっともな話だと痛感した。
まさに、伝統的な工法、すまいを残すための、とても重要な指摘を山本さんはされている。
技を残すことは業界の仕事、作り手側はもちろんそれを懸命にやっていくことは重要である。
しかし、市場の求める需要が違えば、それで生計を立てるものとしては、需要に応えざるを得ない。
伝統産業を残す上で大切なのは、「昔の需要を喚起すること」、すなわち今を見直し、昔に還ることの重要性を認識させることである。

町屋のいいところはたくさんあるが、僕が思う第一番は、「不便で、暗くて、寒い家だということ」だと断言できる。現代のような、過剰な便利、不自然な明るさ、寒くない冬、暑くない夏を人工的に創出することが、 当然のことだとは思えない。町屋のいいところは、「あたりまえのことがあたりまえにある」ということだ。言い換えれば「当然のすまい」だと言えるだろう。
そこがもっともいいところである。

「当然のすまい」に住むと、人はどう育つだろうか。まさに「当然の人間」となるに違いない。
当然のことを当然と受け入れ、そこに工夫を見出していく、という「人間の知恵の営み」が働き出すに違いない。まさに「人工的な機械」から、「人間の知恵」へと三ガエルのである。
そのほうが、どんなに便利ですばらしい人工物に囲まれる暮らしよりもすばらしいと僕は思う。
当然のことを当然とすることで、何物にも変えがたい、手に入れ難いものを手にするのだ。

この価値、笑うべくものなのか?
この価値より、便利のほうが重いのか?
鍛えるべきは、道具や機械ではない。人間である。(じゃん)

「日本の初戦に思うこと」

(2006.6.13) no.091


サッカーに興味のない方、ごめんなさい。今回は現在ドイツで開催されているサッカーワールドカップの話題です。
 日本の初戦、オーストラリア戦は瞬間最高視聴率60.9%、実に国民の過半数世帯が注目したこの試合、多くの方がご覧になったと思います。しかし、結果は残念な結果に終わりました。前半に先制するも試合終了の間際の9分間で3失点、まさかの逆転負け。どうしても負けられない試合で思うような結果が出ず、応援するわれわれの落胆も大きいですが、重要な試合で奮闘した、互いの国を代表する選手達の健闘をたたえ、まずは敬意を表したいと思います。この試合を観戦して、私はあるひとつの確信を得ました。

 サッカーは国が現れる。いや、サッカーでなくてもあらゆる競技、ルールを介しておこなうすべての表現には、その国柄、国民性がよく現れるものだ、という結論です。「セレソン」と呼ばれる、ブラジルの代表の姿を見てみると、実にさまざまの個性を見出せます。背の高い人、低い人、小柄ながらがっしりした体格の人、大きく立派な人、ひ弱とも見える人…等々、生まれも素性も生い立ちも人種もさまざま、世界最高のチームといわれるセレソンは、驚くほどの「でこぼこチーム」に見えます。しかしこれが、国家そのものといわれる、個性豊かなブラジルの代表チームの姿なのです。
チームを見ればその国の姿が偲ばれます。ブラジルはサッカーと出会い、その国の全てを表現したスタイルで世界の人々を驚かせます。変わって日本の代表は、そんな世界の選手達に比べるとどちらかといえば平均的、似たような選手の多い、よく言えば「整ったチーム」に見えます。

 現在サッカーの日本代表はブラジル人のジーコ監督を迎え、世界で最も進んだブラジル流のサッカーを取り入れました。個性を重視するジーコのスタイルは日本には適しません。日本には日本のサッカーがある。僕は日本のサッカーが好きです。プラティニは日本のサッカーを「未来のサッカーの姿」と評しました。芸術の国フランスの人は、日本の繊細な、芸術的な知的なサッカースタイルが好みなのでしょう。
 日本の強みとは何でしょうか?左記にあげた芸術的・知的・繊細といった他にも、組織的・統率的・献身的といったイメージもあります。ときに「サムライ」に例えられる日本の選手もいます。これは最後まであきらめない、強い精神力によるものです。反面、個性という面では、強いものは必要としません。個性をやたら伸ばすのではなく、個性を理性で包んで和を重要視するスタイルです。やはりこれが日本のスタイルなのではないでしょうか。今大会の初戦でそれを確信しました。明治以降の日本は世界に追いつけ追い越せと先進国を手本に努力を続けてきました。しかしただ模倣だけでは本物ではありません。自国のスタイルにしてこそ、本来の姿です。つまり今、日本に必要なのは、自分たち自身の国の特質、個性を知ることなのではないでしょうか。体格的に劣る日本人が、肉体改造をしてりっぱな体を手に入れても模倣に過ぎず、真に強くはなれません。己を知り、自国を知り、その特質、伝統の上に自らの文化・スタイルを作り上げるべく、努力する。これこそが今、真に求められていることなのではないでしょうか。いい物を取り入れるというのは、自国を捨てることではありません。(じゃん)

「発展と回帰」

(2006.5.28) no.090


戦後の「発展と回帰」という現象について考えてみた。
戦後日本の産業は、従来の手作業から、機械工業による企画大量生産に変化していった。機械による工業化は効率と、安定性、経済性の面で手作業を上回り、現代の主流となった。技術革新による、経済と物質の豊かさを両立した、松下電器の松下幸之助の目指した世界感である。その後も、さらに工業経済は発展し、90年代にはトヨタが世界第2位の販売台数を誇る最大手の自動車メーカーとなる。
JRグループの運行する新幹線は、戦後の高度成長の象徴であり、現在でも世界最高性能の高速鉄道である。その他の分野でも、日本の工業技術レベルは世界トップレベルであり、常に品質の良いものを世界に提供している。これらはすべて日本人の精神の発露であり、努力研鑽の結果であり、賞賛し、誇りとすべきことである。

そのなかで、あらゆる公害問題や、環境破壊、スピード社会による心のひずみなど多くの問題が現出してきた。
特にその効率化による品質の低下、日本人の精神性などを見直す意味で、昭和20年代には柳宗悦らによる民芸運動が起こる。70年代には公害運動や、ヒッピームーブメントによる自然回帰が、2000年にはスローライフ・スローフード運動が脚光を浴びる。

戦後日本は、「発展という進化」と、「回帰という見直し」を繰り返しながら進歩してきた。この「発展と回帰」という現象は、単なるブームのみならず、時代の要求する役割を持って生まれてきたといえる。技術、発展というのは一本の幹であり、積み重ねであり、力学によって動いている。したがって、これらはさまざまな力学によって自然と大きな流れを形成し、「上へ」という一方向を目指して進んでいく。しかし、回帰というものは発展とは逆方向への力である。大きな本流の軌道を修正するべく力、と言い換えてもよい。ゆえに、この回帰という行動は大きな可逆的エネルギーを伴い、そのメッセージは重要であり、貴重な示唆を持っている。和楽社中の進める活動もこの「回帰」に当たり、さらにはこれを修正した新しいライフスタイルの提案というのが活動の主軸である。「完全なる昔回帰」が和楽の究極の目標ではない。

われわれの目標は、戦後度々行われてきた「回帰という見直し」というメッセージを伝えることと、それを受けて、より良い生き方、より良い方向性、今後のライフスタイルを模索することである。「発展と回帰」という現象は、互いに相反する性質を持ちながらも、いずれも同じ「より良い未来」という方向性を目指すための必要不可欠な運動なのである。(じゃん)

道具で暮らしは変わるのか?

(2006.2.1) no.089


新しく何かを始めたり、意識して変えたものよりか、普段意識しない生活のほうが返って大きな影響力を持っているものだ。何時のころからだか、そんな風に考えるようになってきた。人間は気付かない内にいろいろなことを受け入れ、肯定ながら暮らしている。言ってみれば「普段力」とでもいうのだろうか。いやこれが実にやっかいなものなのだ。
 文化というものを考えていると行き当たるのが、その根の深さである。人の内に浸透した習慣やジョーシキ的感覚というものはそうそう抜けきるものではない。それが時として壁となり、世代や地域、民族間の相互理解の妨げになってしまったりする。難儀なことだが、それを超え、理解し影響しあっていくこと(異文化コミュニケーションというのか)でそれぞれの文化がより強くなっていくのだが…。

 さて、道具と暮らしの話である。前回までに和の道具の効率性と環境性能の高さについてお話してきた。そのときに、それらを使うという「行為」の重要性についてもふれた。それが今回お話しする「変わる」というポイントなのである。道具が変わればその行為も変わる。たとえば同じ「掃除をする」という行為にも、掃除機を使った場合と、箒を使った場合ではその行為が違ってくる。どちらも掃除をしたことに違いはないが、しかし動き、所作といった「行為」はまったく別のものなのである。これらのことを意識して行っている人は極めて少ない。しかしその動作を客観的に眺めてみたとき、どちらに「心」があるかその違いは誰が見ても明らかである。こういうことは、ぼんやりと、しかし確実に浸透しているのだ。
 アメリカ在住のある日本人の書いた記事でおもしろいものがあったので紹介したい。「あるとき私は、品がありやさしくて、母親の理想像と敬愛していたアメリカ人が、冷蔵庫のドアを後足で閉めていたのを見て唖然としてしまった。」とその経験談を書いている。これを見た多くの日本人にはあきれてしまう行為だろうが、これこそが文化の違いなのである。彼女は続ける、「道具を足で扱うなど、なにも小笠原流に通じていなくても日本では行儀の悪いこととみなされてきた。だがこれも生活の変化とともに日本人にも許される日が来るのかもしれない。すでに私たちの台所にはペダル式のごみ入れが普及しているのだから…」と。(じゃん)